« 2015年3月 | メイン | 2015年5月 »

2015年4月

2015年4月15日 (水)

これは何だろう?

イチョウの木の下に毛虫のようなものがたくさん落ちています。クスノキの花粉でもなさそうです。上を見上げるとイチョウの葉の周りにいっぱい付いています。調べてみるとイチョウの花のようです。
イチョウは雌雄異株で,ギンナンができる雌株と,ギンナンができない雄株があり,それぞれ雌花と雄花を別々に咲かせるそうです。写真の木にはギンナンは出来ません。どうやらイチョウの雄花のようです。ギンナンができる雌株の木をさがしましたが雌花は見つけられませんでした。

150415_115759_02w

150414_134127w

2015年4月14日 (火)

突然のひょう(雹)

夕方,部活が始まってすぐ,雷が鳴り出し,グランドの生徒を待避させたとたんに,ひょうが降り出しました。5分間くらいでしたが,びっくりしました。もう雷もおさまって青空も見えてきました。ひょう(雹)とあられ(霰)の違いは氷の粒の大きさの違いだそうで,5mmより大きなものがひょう,小さなものがあられだそうです。とすればさっきのはちょうど中間くらいでした。

150414_170222_02w

150414_170336w

車体検査

7限目に車体検査を行いました。タイヤやブレーキなどのチェック項目を確認し,合格した生徒は自転車許可プレートを受け取って,さっそく貼っていました。

150414_155740w

教育相談期間

今日から教育相談期間が始まりました。新学期が始まって新しい担任の先生と一人ずつ話をする機会をつくることがねらいです。今日は7限目のLHRの時間を使って個人面談を行いました。24日まで7限目や放課後を使って行う予定です。

150414_160107w

健康診断

今週は今日から各学年の健康診断を行っています。今日は2年生の健康診断と全学年の眼科検診を実施しました。写真は体育館での健康診断(歯科検診)の様子です。

150414_133325w

2015年4月13日 (月)

第2回甲鶴戦応援全体練習

7限目,体育館で第2回甲鶴戦応援全体練習がありました。甲鶴戦前の最後の全体練習は,吹奏楽部の演奏も入れて本格的な練習となりました。1年生も次第に慣れてきて甲南生一体となった応援ができるようになりました。

150413_155656w

150413_160414w

150413_160519w

150413_160755w

1年生オリエンテーション

5・6限目に二甲記念館で1年生オリエンテーションがありました。5限目は,生徒会執行役員が「一日の学校生活のポイント」を寸劇仕立てで解説しました。6限目は部活動紹介として,各部活動のPRを収録したDVDを視聴しました。1年生の皆さん甲南高校の全てが見えてきましたか?

150413_142719w

今年度最初の学年朝礼

今朝は今年度最初の学年朝礼を実施しました。
3学年は二甲記念館に集まり,まず,学年団の紹介(写真左)があり,そのあと学年主任の中須先生から,今週末の甲鶴戦に向けて,第1回全体応援練習を見て「3学年としてもっとできるはず」との激励の言葉がありました。
3学年とも最後に,新年度初めての服装容儀指導を行いました。写真右は1学年の様子です。

150413_082033w_2

150413_083222w

四県対抗バスケットボール県予選最終日の結果

鹿児島アリーナで開催されたバスケットボール第70回南九州四県対抗選手権県予選,最終日まで勝ち進んだ女子は3位でした。

女子 準  決  勝 甲南58●-○73鹿児島女子
        3位決定戦 甲南62○-●60れいめい

2015年4月12日 (日)

若き薩摩の群像(11)人物編⑩名越時成

 10人目に紹介する「名越時成(なごやときなり)(名越平馬)」は,電車通り側下段左側で立ったまま左手に本を持ち,右手のひじを台にもたれかけている人物です。

市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)


名越時成 留学に当たっての変名:三笠 政之介 出発時21歳
陸軍学術を学ぶ。留学の翌年8月下旬帰国。


市の説明板にたった1行だけしか説明書きがない人物が二人いますが,そのうちの一人です。鹿児島市の観光サイトにはこのような文章が出ていました。

 小姓輿当番頭だった名越は,1865(慶応元)年,21歳のとき三笠正之介と変名し,薩摩藩英国留学生の一員としてイギリスに渡る。はじめは留学生の候補に入っていなかったが,当初候補者だった島津織之介と高橋要が辞退したため,替わって留学することになった。
 イギリスでは数学教師のドクトル・デゥイスという人の家に下宿し,ロンドン大学に入学して陸軍学術を学ぶ。翌年の1866(慶応2)年,他の4名とともに帰国する。帰国後の消息は不明。

 別な記事で,「帰国して戊辰戦争に従軍したのち,かつて父の名越左源太が流刑にされた奄美大島に暮らした。1912年没。」と書かれたものもありました。


  帰国してからの時代の流れの中で,表舞台に出ず,ひっそりと晩年を暮らした人物のようですね。

140928_105220w

Nagoshi_tokinariw

Nagosi_haitiw

カテゴリ