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2016年1月31日 (日)

若き薩摩の群像(25)最終回

1年以上にわたって掲載してきた「若き薩摩の群像」に関する記事ですが,碑の下の方に掲示されている碑文を紹介し,とりあえず一旦シリーズ終了とします。(実際の碑文には句読点がついていません。また数字も漢字で書かれています。)

南面の下に碑の由来が書かれた碑文が2枚あります。

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碑の由来Ⅰ(南面下右側の碑文です。)
 1863年の薩英戦争で,ヨーロッパ文化の偉大さを知った薩摩藩では,前藩主島津斉彬の遺志をついで,イギリスへ新納久修以下の留学生並びに外交使節団を派遣した。当時幕府は日本人の海外渡航を禁じていたので,甑島大島辺出張として,すべて変名を用いた。
 一行は1865年4月17日串木野羽島浦を出航して,道中驚きの眼を見はりながら66日目の6月21日,ロンドンに到着。学生たちは,ロンドン大学に留学した。
 留学生とともに渡航した新納久修,五代友厚らは,イギリスで紡績機械を購入し,1867年5月鹿児島市磯に,日本最初の機械紡績工場,鹿児島紡績所を建設した。機械の据付や操業指導のため,来日した英人技師たちの宿舎が,磯に現存する異人館である。
 更に松木弘安は,かつて2年間イギリスに滞在した経験を活用して,イギリス外務省当局に働きかけ,天皇のもとに統一国家日本をつくる必要を力説して,イギリス当局の理解を得た。以来イギリスの対日方針は一変し,フランスが幕府を支援するのに対して,イギリスは薩長倒幕派を支援するようになり倒幕運動の進展に,重大な影響を与えた。
 また薩摩藩が,1867年のパリ万国博覧会に,幕府と対等の立場で出品することになたのも,彼らの働きの結果である。

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碑の由来Ⅱ(南面下左側の碑文です。)
 日本国内では薩長同盟の成立後,幕府と倒幕派の対立が激化し,国内政局は大きく動揺したが,倒幕派の頂点に立つ薩摩藩当局は派遣団からのヨーロッパ情報に,大きな力を得て,情勢を有利に展開した。
 留学生はその後,大部分の人が,アメリカやフランスに渡って留学生活を続け,帰国後明治政府に仕えて,留学の成果を大きく発揮した。鮫島尚信,吉田清成,中村博愛は共に公使となって外交界で活躍。田中盛明は生野銀山の開発に尽くし,畠山義成は東京開成学校長,森有礼は初代文部大臣となって,いずれもわが国の文教の発展に尽くした。松村淳蔵はアメリカアナポリス海軍兵学校を卒業してわが国海軍の建設に力を尽くし,海軍中将となった。留学当初13歳という最年少の長沢鼎は生涯をアメリカで送り,広大なぶどう園の経営とぶどう酒製造に新生面を開き,ぶどう王と言われた。
 また使節団の新納久修は家老,のち司法官となり,町田久成は内務省に出仕。五代友厚は大阪商工会議所を創設して,初代会頭となり,松木弘安は外務卿となって活躍した。
 このように,薩摩藩当局の勇気ある決断と若き薩摩の青年たちの積極的熱意とは,日本の歴史を大きく転換させ,新生日本を建設する原動力となったのである。

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北面の下に制作の目的が書かれた日本語と英語の碑文があります。

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(北面下左側の碑文です。)

 薩摩は,明治維新など日本の近代化に有為な人材を輩出した誇り高き土地柄であり,現代の私たちにも先人の情熱が脈々として流れています。
 この像は,日本の開花期に大きな役割を果たした薩摩藩英国留学生を主題とした「若き薩摩の群像」です。
 薩英戦争において西欧文明の偉大さを痛感させられた薩摩藩は,鎖国の禁を犯し,1865年,藩士17名の留学生を英国に派遣しました。
 一行は,強靱な士魂と熱烈な郷土愛をもって異国における数々の障害を克服し,学問や技術を修め,帰朝後は,黎明日本の原動力となり各分野で不滅の業績を残しました。
 わが鹿児島市が,今日50万都市達成の記念すべき時にあたり,私どもは,これらの偉業と,古来進取的であったわが郷土の気風に学び,あすの郷土の限りない発展を念じて,この像を建立したものです。
   昭和57年3月
                          鹿児島市長 山之口 安 秀
                                題字 山之口 安 秀
                                                               制作 中 村 晋 也

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(北面下右側の英文の碑文です。)

Satsuma, now Kagoshima, produced brilliant, far-sighted men during the Meiji Restoration (1868). In 1865, defying the Tokugawa Isolation Law, 17 courageous young students from Satsuma were smuggled to Europe and America to learn advanced Western technology. Overcoming great difficulties, they returned to become the driving force in the modernization of the feudalistic society.
 On the auspicious occasion of our city attaining the 500,000 population mark, we, the descendants of these dedicated men, erect this monument in commemoration to their ideals, and with the hope that we will continue to strive in their tradition to build a better tomorrow.

 Yasuhide Yamanouchi, Mayor
 Sculptor Shinya Nakamura
 March 1982

2016年1月10日 (日)

若き薩摩の群像(24)人物編のまとめ

薩摩スチューデント19人の紹介をしてきましたが,もう一度,「若き薩摩の群像」での配置と,人物,功績を組み合わせてみました。残念ながら「若き薩摩の群像」の説明板には,どの像が誰なのかの説明がないようです。参考にしていただけたら幸いです。

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<西側>
①町田久成   留学生の学頭 東京帝室博物館(後の東京国立博物館)初代館長
②中村博愛   外交官  オランダ,ポルトガル,デンマークの公使を歴任
③鮫島尚信   外交官 在フランス特命全権公使等を歴任
④森有礼     初代文部大臣として明治の学校制度を設立
⑤町田清治郎  50年以上経って回顧談を残す(「財部実行回顧談」)
<東側>
⑥新納久修    留学生団長 帰国後は薩摩藩家老
⑦町田実積    小松帯刀死後の小松家当主となるが,以後消息不明
⑧吉田清成    駐米公使等外交官として活躍,理財家としても足跡
⑨五代友厚    留学生派遣提案 大阪の経済発展に尽力 初代大阪商法会議所会頭
⑩名越時成    帰国後の消息不明(戊辰戦争従軍後,奄美で生活?)
⑪長沢鼎      一行中の最年少。生涯をアメリカで送りぶどう王と言われた
<北側>
⑫寺島宗則    松木弘安,外務卿として条約改正に尽力 文部卿等も歴任
⑬畠山義成    初代東京開成学校(現東京大学)校長
⑭田中盛明    生野鉱山の近代化に尽力
<南側>
⑮市来和彦    松村淳蔵,アメリカの海軍士官学校を卒業した初めての日本人
⑯村橋久成    北海道の農業の発展に尽力 札幌麦酒醸造所を建設
⑰東郷愛之進  戊辰戦争に従軍中病死
<その他>
⑱堀 孝之 長崎出身 通訳 五代友厚を補佐
⑲高見弥市 土佐出身 県立中学造士館数学教師

2015年12月23日 (水)

若き薩摩の群像(23)人物編⑪長沢鼎「本籍・生い立ちの地」

 長沢鼎については,昨年10/26付けで誕生地の記念碑,4/26付けで若き薩摩の群像の11人目として取り上げており,今日で3回目です。
  今年の11月に,甲突川の河岸の「本籍・生い立ちの地」に記念碑が立てられたと聞きましたので行ってきました。

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 石碑の表の説明板には次のように書かれています。
 長澤鼎(本名 磯永彦輔)は1852年,嘉永5年に鹿児島城下に生まれる。下荒田のこの地で多感な少年時代を送り,郷中教育や示顕流を学び,薩摩武士道を身に付ける。 開成所洋学校時代の1865年(慶応元)薩摩藩英国留学生15人のなかに最年少の13歳で選ばれ渡英,スコットランドに一人送られるがアバディーンの中学校に在籍して優秀な成績をおさめる。
  1867年(慶応3)15歳でアメリカ・ニューヨーク州に渡り,さらにカリフォルニア州サンタローザに移住してこの地に永住。苦労を重ねながらワインの醸造所とブドウ園の経営に尽力して偉大な功績を残し,後世まで「ブドウ王」「ワイン王」としてその名を語り継がれる。
 1910年(明治43)本人の強い希望で,この地荒田町(後の下荒田町)53番地に新戸籍を創設,ここを終生の故郷とさだめる。
 1934年(昭和9),日本人初のアメリカ移民として日米の強い絆を結んだ長澤鼎は,カリフォルニア州サンタローザの地で82年におよぶ波乱の生涯を閉じる。今,鹿児島の興国寺墓地で静かに眠る。
                                                           鹿児島サンタローザ友好協会
                                                                       会長 森 孝晴 記

右側の写真は渡英した13歳当時ロンドンで撮影されたもののようです。

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石碑の裏面には
2015年(平成27)11月1日 長澤鼎英国留学150年を記念して建立する  とあります。

長澤の誕生地は,甲南高校の正面道路の向かい側を少し入った共研幼稚園の隣に記念碑が建っていますが,この生い立ちの碑はその後引っ越して少年時代を過ごし,アメリカに移住した後,だいぶ立ってから本籍地になった場所ということのようです。
興国寺墓地は鹿児島市冷水町にあって,薩摩藩英国派遣留学生団の団長を務めた新納久修のお墓もあるようです。

2015年12月20日 (日)

若き薩摩の群像(22)人物編⑨五代友厚 その2

 3/15付けで9人目に紹介した五代友厚の銅像が建っている泉公園に行ってきました。今,NHKの朝ドラに登場して,知名度が急上昇のようです。

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鹿児島市設置の説明板 godai_setumeiban.pdfをダウンロード

像の裏に回ると碑文が書かれていましたが,「碑文が見えずらくなっており,ご迷惑をおかけしております。内容については,以下のとおりです。」という案内板が置かれています。その案内文の内容です。(句読点を入れてみました。)

五代友厚小伝
五代友厚は,1835年(天保六年)薩摩国鹿児島郡城ヶ谷今の鹿児島市長田に生まれた。
幼名を徳助また才助と言い,西郷隆盛,大久保利通と共に「薩摩の三才」とよばれた。
名藩主島津斉彬の影響もあって積極進取の気象にとみ,既に十四才のとき,世界地図や地球儀を作って世界の体勢研究をした。二十三才のとき藩から選ばれて長崎に学んで洋学を研究し,二十五才のとき上海に密航,藩の為にドイツ汽船を購入し,天佑丸と命名,その船長となった。
その後,長崎にあって英商グラバー等を折衝して薩藩の近代的武装化と紡績機械等資本主義的諸機械の購入に努力した。薩英戦争(1863年)のとき,帰国従軍して不幸英艦に捕らわれたが,これが契機となって,薩英の間は急速に接近し1865年彼に薩藩第1回の留学生十四名を率いて,渡英し欧州各国を視察した。こうして得られた国際的所見と識見と近代的商工取引の知識を駆使して薩藩のみならず,革新諸藩の艦船,武器,近代産業諸機械の購入を斡旋し,これを通じて明治維新に於ける薩藩の指導性を確立することに貢献した。維新後は明治政府の参与として,新政に参画し,専ら大阪を舞台として開国当初の外交貿易に力を尽くした。1869年(明治2年)感ずる所あって官を退き,その後1885年(明治18年)51才で逝去するまで一身を殖産興業にささげ,殊に大阪商法会議所初代会頭として,維新以来荒廃した大阪商工業の復興に尽力した。「大阪の父」「二代豊太閤」と称せられる所以である。
その事業は造船,紡績,鉱山,銀行,取引所,学校,交通運輸等各方面に亘り,然もこの間「大阪会議」「熱海会議」等を通して間接に国政にも参画した。即ち,彼は近代日本黎明期に於ける,大阪指導者であったのである。
(この小伝は長田陸橋に建設されていた碑文より転記)

銅像の由来
大阪の篤志家坂岡勇治氏が 東京の彫刻家坂上正克氏に依頼製作
1961年 氏より鹿児島市(市長 平瀬實武)に寄贈
同 年 鹿児島市保直次氏の建設費寄贈により長田陸橋に建設
1981年 本公園に長田陸橋より移設
1981年3月 鹿児島市長 山之口安秀

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2015年12月 6日 (日)

若き薩摩の群像(21)人物編⑲高見弥市

 若き薩摩の群像として並んでいる17人をはじめに,渡英したメンバー19人を紹介してきましたが,市の説明板だけで紹介されている高見弥市を最後に紹介します。

市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)


高見弥市 留学に当たっての変名:松元 誠一 年齢31歳
海軍測量術を学ぶ。元土佐藩士で,留学の翌年8月帰国。のち鹿児島で中等学校教員となり数学を教える。

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これだけなので,あわせて薩摩藩英国留学生記念館のホームページの人物紹介も転載させてもらいました。

留学当時,薩摩藩開成所第三等諸生。蘭学専修。21歳。
土佐藩の出身で,尊皇攘夷派の土佐勤王党の一員として吉田東洋暗殺事件を起こし,薩摩藩邸に匿われた大石団蔵のこと。薩摩藩に取り立てられて後,高見弥一を名乗りました。 帰国後,いったんは明治政府に出仕し,大阪運上所勤務を命ぜられますが,明治5年(1872)には鹿児島に戻り,その後鹿児島で算術教員として過ごしました。
明治29年(1896)2月28日鹿児島で死去,52歳。


吉田東洋暗殺事件は,過去の大河ドラマでも取り上げられており見た記憶があります。
当時土佐藩の参政を務めていた吉田東洋を,意見が対立していた土佐勤王党の武市半平太が大石(高見)・那須・安岡の三人を刺客に選び暗殺したとされています。

さらにネット上でも記事がけっこう出てきます。要約するとこんな感じです。
事件後土佐藩の追っ手に追われると,当時京都に居た長州藩の久坂玄瑞の元を頼り,久坂によってその身柄を薩摩藩に預けられ,その間に親しくなった薩摩藩士・奈良原喜八郎の養子となり名前を高見弥市と変えて,薩摩藩に召し抱えられることになった。

薩摩藩に亡命した高見は,元治元(1864)年6月に薩摩藩が設立した洋学教育学校「開成所」の諸生に選抜された。この開成所諸生に選ばれた者は,薩摩藩の藩校「造士館」などから選び抜かれた俊才ばかりであり,高見が元土佐人でありながら,その諸生に選ばれたのは異例のことであった。さらに高見が英国留学生一員として推薦された事実を考えあわせると,開成所では非常に優秀な成績を残していたことが窺い知れる。

維新後は鹿児島県立中学造士館で数学教師として教鞭をとる。
明治25年(1892)には,沖縄県知事に就任した奈良原繁に従い沖縄県庁に勤めるが,やがて辞職して鹿児島へ帰った。

この中学造士館は甲南高校の前身である鹿児島第二中学校の元になった学校です。その意味で高見弥市は本校にとっては身近な存在です。


前回の堀孝之と今回の高見弥市が像になっていない理由は薩摩藩以外の出身だからという説明がされているようです。実際には「若き薩摩の群像の形態」からやむを得ないのかもしれませんが,小さな像でいいから隣にでも2人の像があっていいのではと思うのですが・・・。

2015年11月29日 (日)

若き薩摩の群像(20)人物編⑱堀 孝之

 若き薩摩の群像となっている17人は前回までに紹介しましたが,渡英したメンバーは19人で,市の説明板にはあと2人の人物が紹介されいています。その一人が堀孝之です。

市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)


堀 孝之 留学に当たっての変名:高木 政二 年齢不詳
一行の通訳。長崎人。新納,五代と共にイギリス国内やヨーロッパ大陸を視察,のち岩下方平らのパリ万博使節団にも随行。


これだけなので,あわせて薩摩藩英国留学生記念館のホームページの人物紹介も転載させてもらいました。

留学当時,21才。
長崎のオランダ通詞(通訳)堀家の生まれ。長崎出身。
通訳として参加。五代友厚の長崎海軍伝習所時代から親交があったようです。

薩摩藩英国留学生として渡欧中は,新納・五代・寺島とともにヨーロッパ各国を回り,慶応2年3月帰国しました。五代が実業界に転進してからは五代の事業を助け,五代の死後は遺族の世話をしていたそうです。

堀家と薩摩藩の関係は深く,島津重豪が『成形図説』の編纂のために,孝之の曽祖父にあたる堀家5代堀門十郎を薩摩藩に召抱えています。明治44年(1911)67歳で死去。


今,NHKの朝のドラマで五代友厚が注目されています。堀孝之はその五代と深い関わりのあった人物だったようですね。

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2015年11月 1日 (日)

若き薩摩の群像(19)人物編⑰東郷愛之進

 若き薩摩の群像となっている17人の最後に紹介する「東郷愛之進」は,アミュ側から見て右側,下段右側で,左足を前に出し両手を組んで持ち立っている人物です。

市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)


東郷愛之進 留学に当たっての変名:岩屋 虎之介 出発時23歳
海軍機械術を学ぶ。留学の翌年8月帰国,慶応4年(1868)病没。


これだけなのですが,薩摩藩英国留学生記念館のホームページの人物紹介でも,「留学当時,薩摩藩開成所第三等諸生。蘭学専修。23歳。帰国後,戊辰戦争に従軍し,明治元(1868)年7月8日26歳の若さで戦死。(陣中で病没のよう)」とあるだけです。

東郷の名前はメンバーの案に当初からあり,開成所の生徒の中で優秀な生徒だったと思われます。薩摩スチューデントの一行は,資金難もあって渡米した6人を除き,1867年には帰国しており,東郷も帰国組の一人だったようです。

東郷はメンバーの中で最も若くで亡くなっています。東郷のように戊辰戦争に従軍した者がいるのかどうか,よくわからないのですが,他のメンバーも含めて帰国して頭角を現すまでのあいだ,当時の混乱の中で,それぞれが自分の力を発揮できる場を求めて必死に生きたのだと思います。東郷の死は残念ですが,これも運命かなと思います。

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2015年10月12日 (月)

若き薩摩の群像(18)人物編⑯村橋直衛(村橋久成)

 16人目に紹介する「村橋久成」は,アミュ側から見て右側,下段左側で,右手にコートを持ち立っている人物です。

市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)


村橋直衛 留学に当たっての変名:橋 直輔 出発時23歳
 ロンドン大学では陸軍学術を学ぶ。留学の翌年2月帰国。のち戦争函館役に出征。北海道の農業の技術導入に力を尽くした。


  いつものように少し調べてみました。
   いちき串木野市の薩摩藩英国留学生記念館のホームページの記事を紹介します。

 留学当時,御小姓組番頭。「寄合並」格の出身。22歳。
羽島へ向かう前日に,留学を辞退した2人の代わりとして留学生に選ばれました。 慶応2年5月24日,阿久根着。村橋が他の留学生より早く帰国したのは精神的なバランスを崩したためとも言われています。
帰国後は,戊辰戦争に従軍し,函館戦争終結の和平交渉にも一役買いました。
そして,明治4年(1871)より開拓使に出仕します。
留学中に見た西欧の近代社会,近代農業を手つかずの大地で実現する夢を膨らませ,函館近郊の七重開墾場の開設,札幌の琴似に養蚕を軸とする屯田兵村建設に従事しました。 また,ドイツで醸造技術を学んだ中川清兵衛を雇い入れ,麦酒醸造所を造るプロジェクトのリーダーとなりました。醸造所は初め東京に設け,成功したら札幌に建設するという予定でありましたが,様々な観点から初めから北海道に作るべきという稟議書を提出し,それが認められ醸造所は札幌に建設されました。
この開拓使札幌麦酒醸造所が,現在のサッポロビールの前身となりました。
この他,葡萄醸造所,製糸所,種畜牧場,鮭ふ化場,鶏卵ふ化場,製物試験所の創設にも敏腕を振いました。
ところが明治14年(1881),五代友厚が絡む官営物払い下げ事件の直前,突然開拓使を辞職し,雲水の旅にでます。その後の足取りはあまりわかっていません。
11年後,10月12日神戸又新日報に「鹿児島県鹿児島郡塩屋村 村橋久成」と死亡記事が掲載され,その死が人々の知るところとなり,人々を驚かせました。
明治25年(1892)9月28日 49歳で死去。

※新聞で村橋の死を知った黒田清隆は,神戸から遺体を東京に運び,10月23日,自ら葬儀を行った。青山霊園に墓がある。

 サッポロビールのホームページにこんな記事が載っていました。
 村橋久成小伝(サッポロビール120年史より抜粋引用)
 村橋久成は天保11(1840)年,薩摩藩加治木島津家の分家に生まれ,将来は家老職を約束されていた。慶応元(1865)年,薩摩藩が森有礼ら15人を留学生としてイギリスへ派遣したとき,その一人に選ばれ,ロンドン大学に入学。翌年に帰国し,幕末維新の動乱期には官軍に参加した。

 明治4(1871)年11月,開拓使に10等出仕として採用され,七重村官園(現・七飯町)や,屯田兵のさきがけとなった琴似兵村(現・札幌市)の測量や境界,道路,家屋などの建設に当たった。村橋を今もサッポロビールに強く結びつけるのは,開拓使麦酒醸造所の建設を東京から札幌に変更させた功績によるものであろう。

 開拓使は明治15(1882)年に廃止が予定されていたが,その前年,黒田長官を辞任に追い込んだ「開拓使官有物払下げ事件」が起こる。村橋は,目前で繰り広げられた“官財癒着”に我慢ができなかったのか,同僚たちが止めるのも聞かず,7等出仕の職を辞した。それから約10年後の明治25(1892)年10月,「鹿児島 村橋久成」という名の雲水が路上で行き倒れ,仮埋葬されたという死亡広告が神戸の新聞に掲載された。


 村橋久成を主人公にした「残響」(田中和夫作)という小説があるそうで,その小説を読まれた中村晋也さんが村橋の胸像を作成され,この胸像は関係者の尽力で2005年9月北海道知事公館前庭に建てられたとのことです。

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2015年10月11日 (日)

若き薩摩の群像(17)人物編⑮市来和彦(松村淳蔵)

 15人目に紹介する「市来和彦」は,アミュ側から見て右側,中段中央で,右手にノートを持ち座っている人物です。

市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)


市来和彦 留学に当たっての変名:松村淳蔵 出発時24歳
 海軍測量術を学ぶ。慶応3年(1867)7月渡米,アナポリス海軍兵学校を卒業,明治6年(1873)11月帰国。海軍兵学校長として近代日本海軍の人材育成に尽くした。


  いつものように少し調べてみました。ウィキペディアは松村淳蔵で記事がありました。少し加除しました。

鹿児島城下で市来一兵衛の息子として生れ,奥小姓から開成所諸生となる。1865年,薩摩藩第一次英国留学生として英国に渡り,2年後アメリカに移る。ロンドン大学,米国ラトガース大学で学ぶ。1869年12月アナポリス海軍兵学校に「何の給付も行わないことを条件に」日本人として初めて入学を許可され,1873年5月卒業した。同年11月に帰国。
1873年12月,海軍中佐任官。海軍兵学寮出勤,英国出張,海軍省本省出勤を経て,1876年8月,海軍兵学校長となり,自ら学んだアナポリス兵学校の教育方式を導入した。その後も三度校長となり,海兵教育の発展に貢献した。
(軍人としては長崎海軍伝習所以来の直系がイギリス海軍を範としたのに対してアメリカ海軍の教育を受けた松村以下の者の立場は傍系ともいわれるが,松村が校長として行った海軍兵学校での教育がその後の日本海軍のコスモポリタニズムに影響を与えたとも想像できる。)

1887年5月男爵の爵位を授爵し華族となった。1891年7月海軍中将となり予備役に編入,1910年11月10日に退役,1919年1月7日77歳で病没。


 若き薩摩の群像の中に3人座った人物がいます。東面の五代,北面の寺島はメンバーのリーダーです。南面もこの2人に匹敵する人物だろうと思っていましたが,南側の座った人物は,薩摩スチューデント唯一の軍人さんでした。アメリカの海軍士官学校を卒業した初めての日本人,松村淳蔵。本当にこのメンバーは多才ですね。

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2015年10月 3日 (土)

若き薩摩の群像(16)人物編⑭田中盛明(田中静洲)

 14人目に紹介する「田中盛明」は,アミュ側から見て左側,下段左側で,右手に本を持ち,左手を腰の後ろに回して(イスに座っている長沢鼎の左手の先に)いる人物です。

市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)


田中盛明 留学に当たっての変名:朝倉省吾 出発時23歳
医学を学ぶ。留学の翌年1月渡仏,慶応3年(1867)帰国。兵庫県生野鉱山局長,生野鉱山に洋式鉱山技術を取り入れるなど,日本鉱山業界の発展に尽くした。


  いつものように少し調べてみました。ウィキペディアにも記事がなく,薩摩藩英国留学生記念館の準備室のホームページにこのような記述がありました。(カッコの中はその他の資料にあったものを付け足したものです。)

朝倉 盛明 (あさくら もりあき)
留学当時,薩摩藩開成所句読師。蘭学専修。医師。22歳。(医師という特別の立場として留学生に選ばれたようです。)
長崎に遊学し,蘭学を修め薩摩藩開成所句読師となる。
留学中,慶応2年1月イギリスから,フランスに留学先を代え,慶応3年(1867)帰国。
帰国後は藩の開成所語学教師となった後,明治政府に出仕し,フランス人技師フランソア・コワニエの通訳を勤めるともに,兵庫県の生野鉱山の開発に取り組みました。現在では「銀の馬車道」とも呼ばれる,生野鉱山と姫路市飾磨港を結ぶ鉱山関連物資輸送用の馬車道,「生野鉱山寮馬車道」の整備や,生野鉱山の近代化に力を尽くしました。(生野の町を流れる川に彼の名前をとった「盛明橋」という橋があるそうです。」)
晩年は京都に隠棲し,大正14年(1925)1月24日,81歳で死去(退官後の消息は不明と書いてあるものが多いようです。)


 13人目に紹介した畠山義成からまたまた2か月経ってしまいました。夏休み中に残りの皆さんを終わらせるはずだったのに・・。今回の田中盛明はメンバーの中では少し変わった分野に進んだ方だったようですね。あと3人+2人です。がんばります。

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