若き薩摩の群像(16)人物編⑭田中盛明(田中静洲)
14人目に紹介する「田中盛明」は,アミュ側から見て左側,下段左側で,右手に本を持ち,左手を腰の後ろに回して(イスに座っている長沢鼎の左手の先に)いる人物です。
市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)
田中盛明 留学に当たっての変名:朝倉省吾 出発時23歳
医学を学ぶ。留学の翌年1月渡仏,慶応3年(1867)帰国。兵庫県生野鉱山局長,生野鉱山に洋式鉱山技術を取り入れるなど,日本鉱山業界の発展に尽くした。
いつものように少し調べてみました。ウィキペディアにも記事がなく,薩摩藩英国留学生記念館の準備室のホームページにこのような記述がありました。(カッコの中はその他の資料にあったものを付け足したものです。)
朝倉 盛明 (あさくら もりあき)
留学当時,薩摩藩開成所句読師。蘭学専修。医師。22歳。(医師という特別の立場として留学生に選ばれたようです。)
長崎に遊学し,蘭学を修め薩摩藩開成所句読師となる。
留学中,慶応2年1月イギリスから,フランスに留学先を代え,慶応3年(1867)帰国。
帰国後は藩の開成所語学教師となった後,明治政府に出仕し,フランス人技師フランソア・コワニエの通訳を勤めるともに,兵庫県の生野鉱山の開発に取り組みました。現在では「銀の馬車道」とも呼ばれる,生野鉱山と姫路市飾磨港を結ぶ鉱山関連物資輸送用の馬車道,「生野鉱山寮馬車道」の整備や,生野鉱山の近代化に力を尽くしました。(生野の町を流れる川に彼の名前をとった「盛明橋」という橋があるそうです。」)
晩年は京都に隠棲し,大正14年(1925)1月24日,81歳で死去(退官後の消息は不明と書いてあるものが多いようです。)
13人目に紹介した畠山義成からまたまた2か月経ってしまいました。夏休み中に残りの皆さんを終わらせるはずだったのに・・。今回の田中盛明はメンバーの中では少し変わった分野に進んだ方だったようですね。あと3人+2人です。がんばります。