若き薩摩の群像(7)人物編⑥新納久修
6人目に紹介する「新納久修(脩)」は,最上段電車通り側で両手を広げて立っている人物です。読み方は「にいろひさのぶ」(「ひさなが」とふりがながふってあるのもありましたが・・)と読むようです。
この新納久修の像は,像の中では一番高いところにあり,右の写真のように下から見上げてもよく見えず,電車通りを挟んで遠くの方からでは小さくてよくわかりません。そこで電車通りを挟んで望遠で写真(写真左)を撮ってみました。こんな表情の像だったんですね。
市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)
新納久修 留学に当たっての変名:石垣鋭之助 出発時34歳
留学生の団長格。イギリス国内やヨーロッパ大陸を視察し,紡績機などの買いつけに当たる。留学の翌年3月帰国のち家老となる。
さすがに一番高いところにいるこの人物が団長さんだったということですね。もう少し調べてみました。
1832(天保3)年生まれ。藩主の一門(伊佐新納氏)で軍役方総頭取のころ兵制改革を行い洋式を採用。その後軍役奉行。薩英戦争で洋式軍の優秀さが証明されたことから,留学生の総責任者に抜擢されたらしい。
(以下鹿児島市に観光サイト「よかとこかごんまナビ」等から転載)
1865(慶応元)年,団長として留学生を率いてヨーロッパ各地を訪問。五代とともにイギリスの工業地帯を回り,紡績機械や武器などをたくさん買い集め,ヨーロッパ各地の様子や事情を見て回った。また,1867(慶応3)年のパリ万国博覧会への参加も話し合った。
鹿児島に帰ると,五代とともに買ってきた紡績機を鹿児島市の磯の工場に据え付けさせ,日本で最初の紡績工場が誕生した。鹿児島紡績の事業は失敗に終わったが,当時最も進んだ技術を導入して近代的な紡績工場を立ち上げたことは,日本の工業の発展に大きな影響を与えた。
帰国後は,薩摩藩の家老として政治に力を尽くした。新政府では外国掛,裁判官を歴任した。
1889(明治22)年12月に58年の生涯を閉じた。
昨年から若き薩摩の群像を取り上げていますが,今年は派遣から150周年に当たるということがいろいろなところで取り上げられています。
昨年は,学校のそばにあるこの像のことをもっと知ろうと,単純な気持ちでこの群像を取り上げ始めたのですが,150周年の記念の年ということですので,中途半端に投げ出さず最後の人物までしっかり記事にしていきたいと思います。生徒の皆さんが少しでも関心をもってくれるといいですね。