若き薩摩の群像(10)人物編⑨五代友厚
9人目に紹介する「五代友厚(ごだいともあつ)」は,電車通り側中段真ん中でイスに座って右手を前に突き出している人物です。
市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)
五代友厚 留学に当たっての変名:関 研蔵 出発時31歳
留学生派遣を提案した中心人物。イギリス国内やヨーロッパ大陸を視察,紡績機械の買いつけにあたる。留学の翌年3月帰国,明治維新後日本経済近代化に指導的な役割を果たした。初代大阪商法会議所会頭となる。
五代は薩摩スチューデントの中でも特に名前が知られる一人です。その割には今ひとつ何をした人かと聞かれるとはっきり答えられないところがあります。本もたくさん出ているようですが,少しまとめてみました。
1836(天保6)年12月26日鹿児島長田町生
島津斉彬に見いだされ,長崎海軍伝習所伝習生となる。
長崎でグラバーと交流。グラバーの紹介で上海に渡り汽船購入にあたる。
薩英戦争で英軍の捕虜となる。横浜で解放されるが,長崎で藩の赦免を待つ。
攘夷の愚かさを説き,留学生派遣を藩に上申する。
薩摩藩遣英使節団として英国に出発,欧州各地を巡歴。
帰国後,戊辰戦争が勃発し五代は西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍。
明治元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛となり,外国官権判事,大阪府権判事兼任として大阪に赴任。大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致。
明治2年(1869年)の退官後,大阪株式取引所(現・大阪証券取引所),大阪商法会議所(現・大阪商工会議所),大阪商業講習所(現・大阪市立大学,天王寺商業高校),阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などを設立。
webサイトにもいよいろ書かれているようですが,たとえば幕末維新風雲伝 http://www.jpreki.com/gadai-tomo/をご覧ください。
鹿児島市泉町(泉公園内)にも銅像が建っていますね。小説を映画化する話もあるようです。