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甲南高等学校

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2015年5月17日 (日)

若き薩摩の群像(14)人物編⑫松木弘安(寺島宗則)

 12人目に紹介する「松木弘安(寺島宗則)」は,アミュ側から見て左側中段真ん中で,膝に山高帽をのせいすに座っている人物です。

市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)


松木弘安 留学に当たっての変名:出水 泉蔵 出発時34歳
幕府の遣欧使節の一員として2年間ロンドンに滞在した経験を生かし,留学生の教育にあたる。かたわら,また,イギリス政府を相手に外交活動を行い,イギリスの対日政策を大きく変えさせ,幕末の倒幕運動に大きな影響を与えた。のち寺島姓となる。


 松木も留学生の中で著名な一人です。ウィキペデアに書かれていることを改めて要約してみました。

天保3年(1832年),出水郡脇本村(現・阿久根市脇本)に生まれ,5歳のとき,跡継ぎがいなかった伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となり,長崎で蘭学を学ぶ。
弘化2年(1845年),江戸に赴き伊東玄朴,川本幸民より蘭学を学び,安政2年(1855年)より中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾の前身)に出講する。
安政3年(1856年),蕃書調所教授手伝となった後,帰郷し薩摩藩主・島津斉彬の侍医となったが,再度江戸へ出て蕃書調所に復帰し蘭学を教える。
安政4年(1857年)から英語を独学しはじめる。
文久元年(1861年)には,英語力が買われて幕府の遣欧使節団の西洋事情探索要員として,福澤諭吉らとともに抜擢された。
文久2年(1862年),幕府の第1次遣欧使節に通訳兼医師として加わる。欧州でオランダ語がまったく重要視されていないことを知り,英学派に転ずる。
翌年に帰国して鹿児島に戻る。文久3年(1863年)の薩英戦争においては五代友厚とともにイギリス軍の捕虜となる。
慶応元年(1865年),薩摩藩遣英使節団に参加し,再び欧州を訪れる。
明治維新後,遣欧使節での経験を生かして外交官となる。明治元年(1868年)にはスペインとの日西修好通商航海条約の締結に関わり,同4年(1871年)にはハワイ王国との日布通商条約締結の際の日本側全権を任されている。明治5年(1872年),初代の在イギリス日本公使となる。
明治4年(1871年)外国との電信業務が始まり,外務大輔として関連する外国の電信会社との交渉を日本が有利な形で結実させたことから,「電気通信の父」と呼ばれる。
明治6年(1873年),参議兼外務卿となる。政府の財政難から関税自主権回復を目指し,諸外国との条約改正に臨み,アメリカとの交渉は良好に進むがイギリスの反対やドイツ船ヘスペリア号事件などもあって条約改正への希望を挫折せざるを得なくなり,明治12年(1879年)に外務卿を辞職。その後,文部卿,元老院議長,在アメリカ日本公使,枢密顧問官,枢密院副議長などを歴任した。
明治26年(1893年),62歳で死去。


松木弘安は,薩摩スチューデントということはなく,新納,五代とともに視察や商談に当たり,学生より短期間で帰国しています。外交家・政治家としての活躍はもっと脚光を浴びても良いように思うのですがいかがでしょう。写真の像もとてもかっこいいですね。

Terasimaw

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