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2015年7月26日 (日)

若き薩摩の群像(15)人物編⑬畠山義成

 12人目に紹介した寺島宗則から2か月経ってしまいました。夏休み中に残りの皆さんの紹介をがんばりたいと思います。
 13人目に紹介する「畠山義成」は,アミュ側から見て左側,下段右側で,左手は伸ばし右手を曲げて巻紙を持っている人物です。

市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)


畠山義成 留学に当たっての変名:杉浦弘蔵 出発時23歳
陸軍学術を学ぶ。慶応3(1867)年渡米,ラトガース・カレッジで法律・政治などの社会科学を学ぶ。明治4年冬帰国,のちわが国の教育制度の改革に着手,初代東京開成学校長(現在の東京大学)。

 いつものように少し調べてみました。ウィキペディア+αの要約です。


 鹿児島城下平之馬場(現在の鹿児島市平之町)に生まれる。
 後の家老候補として留学生の一員に選ばれる。(当初反対したが,島津久光に説得されて留学生に加わったとされる。)留学時の任務は築城の学習。
  1865年イギリスではユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)に1年在学。
  1867年8月,元在日英国公使秘書であったローレンス・オリファントの誘いで,新生兄弟会(ハリスが主宰し,オリファントが信奉していた新興宗教団体)に加わるため,吉田,鮫島,森,松村,長沢ととにも渡米。(町田久成等の他の留学生は帰国)
  1868年5月,吉田,松村とともにハリスの教団を去り,薩摩藩第二次米国留学生とともにニュージャージー州へ。9月よりラトガース大学入学,科学コース(3年制)に入学。年末に受洗し,宣教師を志す。この間,留学生の世話に尽力。
  1871年5月に日本から帰国命令が出る。ヨーロッパの学制視察をしながらの帰国を命じられ,10月イギリスへ。その途中,1872年1月,岩倉使節団合流を命じられアメリカへ戻る。3月1日の岩倉使節団ワシントンD.C.到着と共に,書記官として合流。以後,岩倉具視と共に各国を訪問。
  1873年9月,岩倉,久米と共に帰国。同年6月に文部省顧問として来日した旧知のデイビッド・マレー元ラトガース大学教授の個人通訳などを経て,教育界へ進む。10月文部省五等出仕,開成学校,外国語学校の校長,東京書籍館,博物館の館長,および博物館付属施設の小石川植物園責任者を歴任。
  1876年4月,フィラデルフィア万国博覧会視察のため文部大輔・田中不二麿と渡米。6月ラトガース大学から名誉修士号授与。しかし,結核が悪化,米国滞在の殆どを療養に費やす。9月,ニューヨークからパナマ経由の航路で出航,10月,サンフランシスコ着,シティ・オブ・ペキン号で帰国の途に着くが,10月20日,太平洋上で死亡した。29日,日本着,30日に青山墓地にて葬儀が行われた。享年33歳。
  畠山義成洋行日誌を残している。


 留学生の中でも,長命だった人と若くで亡くなった人がいます。畠山義成は学んだアメリカのラトガース大学時代から人柄と学識,能力が高く評価された人物だったようです。東京大学の前身である東京開成学校の初代校長ということですが,歴史に「もし」があれば,もっと活躍されたはずなのにと残念に思う一人ですね。

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2015年5月17日 (日)

若き薩摩の群像(14)人物編⑫松木弘安(寺島宗則)

 12人目に紹介する「松木弘安(寺島宗則)」は,アミュ側から見て左側中段真ん中で,膝に山高帽をのせいすに座っている人物です。

市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)


松木弘安 留学に当たっての変名:出水 泉蔵 出発時34歳
幕府の遣欧使節の一員として2年間ロンドンに滞在した経験を生かし,留学生の教育にあたる。かたわら,また,イギリス政府を相手に外交活動を行い,イギリスの対日政策を大きく変えさせ,幕末の倒幕運動に大きな影響を与えた。のち寺島姓となる。


 松木も留学生の中で著名な一人です。ウィキペデアに書かれていることを改めて要約してみました。

天保3年(1832年),出水郡脇本村(現・阿久根市脇本)に生まれ,5歳のとき,跡継ぎがいなかった伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となり,長崎で蘭学を学ぶ。
弘化2年(1845年),江戸に赴き伊東玄朴,川本幸民より蘭学を学び,安政2年(1855年)より中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾の前身)に出講する。
安政3年(1856年),蕃書調所教授手伝となった後,帰郷し薩摩藩主・島津斉彬の侍医となったが,再度江戸へ出て蕃書調所に復帰し蘭学を教える。
安政4年(1857年)から英語を独学しはじめる。
文久元年(1861年)には,英語力が買われて幕府の遣欧使節団の西洋事情探索要員として,福澤諭吉らとともに抜擢された。
文久2年(1862年),幕府の第1次遣欧使節に通訳兼医師として加わる。欧州でオランダ語がまったく重要視されていないことを知り,英学派に転ずる。
翌年に帰国して鹿児島に戻る。文久3年(1863年)の薩英戦争においては五代友厚とともにイギリス軍の捕虜となる。
慶応元年(1865年),薩摩藩遣英使節団に参加し,再び欧州を訪れる。
明治維新後,遣欧使節での経験を生かして外交官となる。明治元年(1868年)にはスペインとの日西修好通商航海条約の締結に関わり,同4年(1871年)にはハワイ王国との日布通商条約締結の際の日本側全権を任されている。明治5年(1872年),初代の在イギリス日本公使となる。
明治4年(1871年)外国との電信業務が始まり,外務大輔として関連する外国の電信会社との交渉を日本が有利な形で結実させたことから,「電気通信の父」と呼ばれる。
明治6年(1873年),参議兼外務卿となる。政府の財政難から関税自主権回復を目指し,諸外国との条約改正に臨み,アメリカとの交渉は良好に進むがイギリスの反対やドイツ船ヘスペリア号事件などもあって条約改正への希望を挫折せざるを得なくなり,明治12年(1879年)に外務卿を辞職。その後,文部卿,元老院議長,在アメリカ日本公使,枢密顧問官,枢密院副議長などを歴任した。
明治26年(1893年),62歳で死去。


松木弘安は,薩摩スチューデントということはなく,新納,五代とともに視察や商談に当たり,学生より短期間で帰国しています。外交家・政治家としての活躍はもっと脚光を浴びても良いように思うのですがいかがでしょう。写真の像もとてもかっこいいですね。

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2015年4月26日 (日)

若き薩摩の群像(13)人物編⑪磯永彦助(長沢鼎)

 11人目に紹介する「磯永彦助(彦輔)(いそながひこすけ)」は,電車通り側下段右側でひじかけにぶどうが置いてあるいすに座った一番小さな少年です。

市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)


磯永彦助 留学に当たっての変名:長沢 鼎 出発時13歳
幼少のため勉強の科目を決めなかった。ただ一人,スコットランドの古都アバティーンへ写る。慶応3年(1867)7月渡米,以来生涯をアメリカで送り,広大なぶどう園の経営とぶどう酒製造につとめ,ぶどう王と呼ばれた。


 昨年の10月27日付けのブログで,学校の近くにある誕生地の写真と市の説明板をアップしていますのでそちらもご覧ください。

 市の説明板の写真の説明に長沢鼎がないのでビックリしました。留学生達は渡欧にあたり全員変名を名乗ったわけですが,磯永彦助は「長沢鼎」を名乗り,これ以後一生これを変えることはなかったそうです。

 長沢は留学生の中でも著名な一人ですが,ウィキペデアに書かれていることを改めて要約してみました。


 鹿児島城下上之園通町(現在の鹿児島県鹿児島市上之園町)にて磯永孫四郎とフミの四男として誕生する。
 1865年(慶応元年),13歳のときにイギリスに留学する。
 他の留学生はロンドン大学に入ったが,長澤は年齢が入学年齢に達していないために,スコットランドのアバディーン・グラマー・スクールに通う。貿易商トーマス・ブレーク・グラバーの実家に世話になるが,藩の財政事情が悪化し多くの薩摩藩英留学生が帰国すると,慶応3年,トマス・レイク・ハリスを信奉していたローレオンスリファントの招きで森ら6名で渡米し,ハリスが主宰するキリスト教系の新興教団「新生社」に入り,信者らと共同生活を送る。
 薩摩藩留学生のうち何人かはハリスの思想に違和を感じてすぐ離反したが,長沢は森有礼らとともに残り,森らが帰国後も唯一人アメリカに残り,教団で厳しい労働と信仰生活を送りながら,1870年には9月から3か月ほどコーネル大学にも通った。教団の経営のためにワイン醸造をニューヨークのブルックリンでジョン・ハイド博士から学び,葡萄農園を中心とする農業で財政を支えた。
 1875年,教団はカリフォルニアのサンタローザにワイナリーを開いた。しかし新生社の異端思想に対し,新聞が反教団キャンペーンを行ったために,ハリスが引退すると教団は事実上解散した。
 1900年長澤はワイナリーを教団から買い取り,品質向上に努力し,彼のファウンテングローブ・ワイナリーをカリフォルニア州10大ワイナリーのひとつにまで育て上げた。カリフォルニア大学デービス校の教授に醸造技術を学ぶなど研究を続け,高級ワインに育て上げた上に,フランスには特約店を設け,苗木を輸入するなど,商才にも長けていた。彼のワインは米国内のワインコンクールで好成績を納め,イギリスに輸出された最初のカリフォルニアワインもナガサワ・ワインである。
 生涯独身を貫き,83歳で死ぬと,ワイナリーは甥の伊地知共喜が継ぐ。


 彼の生涯はアメリカでも再評価され,サンタローザの市議会ホールに長沢の胸像が置かれ,レーガン大統領の讃辞が添えられているそうです。

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2015年4月18日 (土)

150年前の4月17日・・若き薩摩の群像(12)

150年前の4月17日は薩摩スチューデントがイギリスに向けて出航した日です。
いちき串木野市羽島にある薩摩藩英国留学生記念館に行ってきました。

<写真上の説明板の文>
 日本の夜明けを求め 留学生この地から渡欧す
 甑島・大島の視察と称し,若き薩摩藩士たちが,当羽島浦を出発したのは,慶応元年1865年4月17日の朝だった。
  二度と薩摩の地を踏めないかもしれない,との決意を胸にイギリス貿易商グラバーが用意した蒸気船オースタライエン号で密かに英国へと旅立ったのである。一行19人の吸収した語学・医学・化学・文学・陸海軍の各術科等は日本近代化への原動力となり,彼等は明治の新知識先覚者として近代国家創建に活躍した。
 思うに,この地は新日本の黎明を告げた記念すべき地である。よってここに記念碑を建立し,次代を担う青少年に夢と希望を与え,これが後世へ継承されんことを祈願するものである。
          昭和57年3月 いちき串木野市・いちき串木野市教育委員会

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2015年4月12日 (日)

若き薩摩の群像(11)人物編⑩名越時成

 10人目に紹介する「名越時成(なごやときなり)(名越平馬)」は,電車通り側下段左側で立ったまま左手に本を持ち,右手のひじを台にもたれかけている人物です。

市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)


名越時成 留学に当たっての変名:三笠 政之介 出発時21歳
陸軍学術を学ぶ。留学の翌年8月下旬帰国。


市の説明板にたった1行だけしか説明書きがない人物が二人いますが,そのうちの一人です。鹿児島市の観光サイトにはこのような文章が出ていました。

 小姓輿当番頭だった名越は,1865(慶応元)年,21歳のとき三笠正之介と変名し,薩摩藩英国留学生の一員としてイギリスに渡る。はじめは留学生の候補に入っていなかったが,当初候補者だった島津織之介と高橋要が辞退したため,替わって留学することになった。
 イギリスでは数学教師のドクトル・デゥイスという人の家に下宿し,ロンドン大学に入学して陸軍学術を学ぶ。翌年の1866(慶応2)年,他の4名とともに帰国する。帰国後の消息は不明。

 別な記事で,「帰国して戊辰戦争に従軍したのち,かつて父の名越左源太が流刑にされた奄美大島に暮らした。1912年没。」と書かれたものもありました。


  帰国してからの時代の流れの中で,表舞台に出ず,ひっそりと晩年を暮らした人物のようですね。

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2015年3月15日 (日)

若き薩摩の群像(10)人物編⑨五代友厚

 9人目に紹介する「五代友厚(ごだいともあつ)」は,電車通り側中段真ん中でイスに座って右手を前に突き出している人物です。

市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)


五代友厚 留学に当たっての変名:関 研蔵 出発時31歳
留学生派遣を提案した中心人物。イギリス国内やヨーロッパ大陸を視察,紡績機械の買いつけにあたる。留学の翌年3月帰国,明治維新後日本経済近代化に指導的な役割を果たした。初代大阪商法会議所会頭となる。


 五代は薩摩スチューデントの中でも特に名前が知られる一人です。その割には今ひとつ何をした人かと聞かれるとはっきり答えられないところがあります。本もたくさん出ているようですが,少しまとめてみました。
 1836(天保6)年12月26日鹿児島長田町生
 島津斉彬に見いだされ,長崎海軍伝習所伝習生となる。
  長崎でグラバーと交流。グラバーの紹介で上海に渡り汽船購入にあたる。
 薩英戦争で英軍の捕虜となる。横浜で解放されるが,長崎で藩の赦免を待つ。
  攘夷の愚かさを説き,留学生派遣を藩に上申する。
  薩摩藩遣英使節団として英国に出発,欧州各地を巡歴。
  帰国後,戊辰戦争が勃発し五代は西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍。
  明治元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛となり,外国官権判事,大阪府権判事兼任として大阪に赴任。大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致。
  明治2年(1869年)の退官後,大阪株式取引所(現・大阪証券取引所),大阪商法会議所(現・大阪商工会議所),大阪商業講習所(現・大阪市立大学,天王寺商業高校),阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などを設立。


 webサイトにもいよいろ書かれているようですが,たとえば幕末維新風雲伝 http://www.jpreki.com/gadai-tomo/をご覧ください。


鹿児島市泉町(泉公園内)にも銅像が建っていますね。小説を映画化する話もあるようです。

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2015年3月 8日 (日)

若き薩摩の群像(9)人物編⑧吉田清成

 8人目に紹介する「吉田清成(よしだきよなり)」は,電車通り側中段向かって右側で,左手にステッキを持ち,立っている人物です。


市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)
吉田清成 留学に当たっての変名:永井五百介 出発時21歳
海軍測量術を学ぶ。慶応3年(1867年)7月渡米。ラトガース・カレッジで政治経済学を学ぶ。明治3年冬帰国。新政府の財政問題と条約改正に取組む。駐米公使,農商務次官をつとめる。


調べてみると次のようなことが出てきました。
弘化2年(1845)薩摩藩士吉田源左衛門の四男として上之園町に生まれる。(生地は三方限出身名士顕彰碑敷地内にある市の説明板の裏にある地図によれば,長沢鼎の生地:甲南福祉館付近にあったらしい)藩の開成所学生として蘭・英語を学ぶ。
イギリス到着後,ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで2年間学んだ後,留学生が帰国組と渡米組に分かれると,吉田は慶応3年(1867)8月,ローレンス・オリファントのすすめでアメリカに渡り,ハリス教団に参加し,労働を中心とする信仰生活に入る。しかし,教団での生活が1年近く経った頃,トーマス・レイク・ハリスと吉田,畠山,松村の3人は意見が衝突して教団を去る。ハリスを信じて教団に残ったのは森,鮫島,長澤であった。
 明治元年(1868)5月,教団を脱退してラトガース大に入学し,アナポリス海軍兵学校を志すが途中で変更してウィルブラハム・アカデミーへ移り政治経済学の勉強を始める。ラトガース在学中の11月に正式に洗礼を受ける。卒業後ニューヨーク市などで銀行保険業務の実際を学び,明治3年(1870)12月帰国。大蔵省に出仕して租税権頭・大蔵少輔を歴任する。債募集のため米国に派遣された際,そのとき米国にいた森有礼と起債の是非を巡って激しく対立した。
明治7年(1874) 駐米公使へ転出,寺島外務卿の下で関税自主権回復を目的として条約改正交渉に従事し,明治11年(1878),日米約書(吉田・エヴァーツ条約)の調印に成功するが,英独の反対で条約は無効となる。
明治15年(1882)外務大輔となるが,時の外務卿井上馨と意見が合わず,明治18年(1885),農商務大輔へ転任となる。
1887年(明治20年)に子爵に叙せられて元老院議官に転出,翌年には枢密顧問官となる。投機取引を抑制する取引所条例制定の推進者としても有名で、終生自分が理財家たることを忘れなかった。明治24年(1891)8月没。享年47歳。
生前,多数の手紙・日記・記録などを遺しており,これら2,700通は「吉田清成文書」として京都大学日本史研究室に保管されている。


吉田清成は,外交官として活躍した他,理財家として明治初期の日本の経済の在り方に足跡を残した人物のようです。吉田と森有礼との対立のように,若い留学生のなかでの生き方,考え方の違い,対立も当然おこることだろうと感じます。

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2015年2月11日 (水)

若き薩摩の群像(8)人物編⑦町田実積

 7人目に紹介する「町田実積(まちださねつみ)」は,電車通り側中段向かって左側で,左手にコートを持ち,右手を胸の前折るようにして立っている人物です。


市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)
町田実積 留学に当たっての変名:塩田惟之亟 出発時19歳
海軍測量術を学ぶ。留学の翌年8月帰国。町田久成の弟。


調べてみると次のようなことが出てきました。
出発時は,薩摩開成所学生。町田申四郎。留学生は学費仕送り等の問題もあって帰国組と渡米組に分かれるが,実積は1866年夏,弟町田清治郎,名越,東郷,高見らと共に帰国。帰国後1870(明治2)年には,小松帯刀死後,母の実妹が小松帯刀の妻であったことから藩主茂久の命により小松家当主となり小松清緝と名乗ったが,2年後には小松清直に家督を譲った。その後町田家に戻ったと思われるが消息は不明。


留学生の中で時代に埋もれた一人と言えるかもしれませんね。

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2015年1月25日 (日)

若き薩摩の群像(7)人物編⑥新納久修

 6人目に紹介する「新納久修(脩)」は,最上段電車通り側で両手を広げて立っている人物です。読み方は「にいろひさのぶ」(「ひさなが」とふりがながふってあるのもありましたが・・)と読むようです。

 この新納久修の像は,像の中では一番高いところにあり,右の写真のように下から見上げてもよく見えず,電車通りを挟んで遠くの方からでは小さくてよくわかりません。そこで電車通りを挟んで望遠で写真(写真左)を撮ってみました。こんな表情の像だったんですね。

市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)
新納久修 留学に当たっての変名:石垣鋭之助 出発時34歳
留学生の団長格。イギリス国内やヨーロッパ大陸を視察し,紡績機などの買いつけに当たる。留学の翌年3月帰国のち家老となる。


さすがに一番高いところにいるこの人物が団長さんだったということですね。もう少し調べてみました。

1832(天保3)年生まれ。藩主の一門(伊佐新納氏)で軍役方総頭取のころ兵制改革を行い洋式を採用。その後軍役奉行。薩英戦争で洋式軍の優秀さが証明されたことから,留学生の総責任者に抜擢されたらしい。

(以下鹿児島市に観光サイト「よかとこかごんまナビ」等から転載)
1865(慶応元)年,団長として留学生を率いてヨーロッパ各地を訪問。五代とともにイギリスの工業地帯を回り,紡績機械や武器などをたくさん買い集め,ヨーロッパ各地の様子や事情を見て回った。また,1867(慶応3)年のパリ万国博覧会への参加も話し合った。
鹿児島に帰ると,五代とともに買ってきた紡績機を鹿児島市の磯の工場に据え付けさせ,日本で最初の紡績工場が誕生した。鹿児島紡績の事業は失敗に終わったが,当時最も進んだ技術を導入して近代的な紡績工場を立ち上げたことは,日本の工業の発展に大きな影響を与えた。
帰国後は,薩摩藩の家老として政治に力を尽くした。新政府では外国掛,裁判官を歴任した。
1889(明治22)年12月に58年の生涯を閉じた。


昨年から若き薩摩の群像を取り上げていますが,今年は派遣から150周年に当たるということがいろいろなところで取り上げられています。

昨年は,学校のそばにあるこの像のことをもっと知ろうと,単純な気持ちでこの群像を取り上げ始めたのですが,150周年の記念の年ということですので,中途半端に投げ出さず最後の人物までしっかり記事にしていきたいと思います。生徒の皆さんが少しでも関心をもってくれるといいですね。

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2014年12月21日 (日)

若き薩摩の群像(6)人物編⑤町田清治郎

5人目に紹介する「町田清治郎」は,アミュ側下段の右側で右手を胸に,左手を前に出して立っている人物です。

市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)
町田 清治郎 留学に当たっての変名:清水兼次郎 出発時15歳
幼少のため勉強の科目を決めなかった。留学の翌年8月帰国。町田久成の弟で,帰国後,財部実行と改姓。


この人物については,帰国後の消息がよくわからないようで,たったこれだけの説明になっていますが,調べてみるとこんな話が出てきます。
・人物編①でとりあげた町田久成の弟。名門門閥の町田久長の末子(5男)。留学生のメンバーには町田兄弟が3人が入っている。留学前は薩摩藩開成所諸生。
・慶応2年夏フランスに渡り,普墺戦争を見学した。
・兄2人と共に帰国。明治になって財部氏の養子となり,財部実行と改姓した。
・町田兄弟の間では,英文で手紙をやりとりするほどで,日本文ができず,久成の勧めで東京へ出て,漢学を習い,その後,築地の海軍兵学寮で学ぶが「明治7年征韓論のとき退学」した。
・当時長沢についでメンバー中の年少だった町田清次郎は,50年以上経って回顧談を残している(「財部実行回顧談」)。清次郎の回顧談は,好奇心いっぱいの少年目線であり,ずば抜けて面白いと言われている。
<薩摩藩英国留学生記念館準備室HPに出ているエピソードの一つ>
(帰国の際に)マルセーユを出航して間もなく,清次郎はオランダから来たという少年と出会います。少年の祖父と父親は,オーストラリア(当時オランダ領)の海軍司令長官(中将)と海軍中佐として赴任するところでした。少年と仲良くなった清次郎は,香港までの船旅を兄弟の様に過ごします。
 ある日,清次郎は少年の祖父にオーストラリア行きを誘われます。清次郎は,資金が無いため困難であると伝えますが,少年の祖父は「小使金をあげるので心配ない」と答えます。また,清次郎がオランダの海軍士官となり,オランダ国籍を取得することを少年が提案したことで,清次郎はオーストラリア行きを本気で考えるようになります。
 香港に着いた清次郎は,オーストラリアに行く為に脱走を試みますが,船員に話が洩れ,失敗に終わります。また,香港の旅館ではイギリス人の監視が付くことになり,
オーストラリアへ行くことを断念します。(財部実行回顧談より参照)
・それ以外の消息は死亡年(1922?)やお墓の場所等も含めて不明。

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