若き薩摩の群像(17)人物編⑮市来和彦(松村淳蔵)
15人目に紹介する「市来和彦」は,アミュ側から見て右側,中段中央で,右手にノートを持ち座っている人物です。
市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)
市来和彦 留学に当たっての変名:松村淳蔵 出発時24歳
海軍測量術を学ぶ。慶応3年(1867)7月渡米,アナポリス海軍兵学校を卒業,明治6年(1873)11月帰国。海軍兵学校長として近代日本海軍の人材育成に尽くした。
いつものように少し調べてみました。ウィキペディアは松村淳蔵で記事がありました。少し加除しました。
鹿児島城下で市来一兵衛の息子として生れ,奥小姓から開成所諸生となる。1865年,薩摩藩第一次英国留学生として英国に渡り,2年後アメリカに移る。ロンドン大学,米国ラトガース大学で学ぶ。1869年12月アナポリス海軍兵学校に「何の給付も行わないことを条件に」日本人として初めて入学を許可され,1873年5月卒業した。同年11月に帰国。
1873年12月,海軍中佐任官。海軍兵学寮出勤,英国出張,海軍省本省出勤を経て,1876年8月,海軍兵学校長となり,自ら学んだアナポリス兵学校の教育方式を導入した。その後も三度校長となり,海兵教育の発展に貢献した。
(軍人としては長崎海軍伝習所以来の直系がイギリス海軍を範としたのに対してアメリカ海軍の教育を受けた松村以下の者の立場は傍系ともいわれるが,松村が校長として行った海軍兵学校での教育がその後の日本海軍のコスモポリタニズムに影響を与えたとも想像できる。)
1887年5月男爵の爵位を授爵し華族となった。1891年7月海軍中将となり予備役に編入,1910年11月10日に退役,1919年1月7日77歳で病没。
若き薩摩の群像の中に3人座った人物がいます。東面の五代,北面の寺島はメンバーのリーダーです。南面もこの2人に匹敵する人物だろうと思っていましたが,南側の座った人物は,薩摩スチューデント唯一の軍人さんでした。アメリカの海軍士官学校を卒業した初めての日本人,松村淳蔵。本当にこのメンバーは多才ですね。