中学校の先生が研修に来られました。
本日,星峯中学校の有川久美子先生(写真右)がパワーアップ研修の他校種研修として研修に来られました。昨年度3年生の担任をされ,甲南高校を希望する生徒が大勢いるのを見て,どんな学校か知りたいと本校を選ばれたそうです。星峯中卒業の生徒とも話をされたそうで,生徒の元気な様子に安心して帰られました。写真はHRに入られた1の1の担任の先生と表現力研修を参観されているところです。


甲南高等学校
剛 明 直(ごうめいちょく) 気高く 優しく 健やかに
本日,星峯中学校の有川久美子先生(写真右)がパワーアップ研修の他校種研修として研修に来られました。昨年度3年生の担任をされ,甲南高校を希望する生徒が大勢いるのを見て,どんな学校か知りたいと本校を選ばれたそうです。星峯中卒業の生徒とも話をされたそうで,生徒の元気な様子に安心して帰られました。写真はHRに入られた1の1の担任の先生と表現力研修を参観されているところです。

甲南高校新聞236号が完成し,本日生徒に配布しました。
記事の内容は次のとおりです。
1面 世界へ飛翔(はばた)け‼ スーパーグローバルハイスクール(SGH)指定
論説 我らの大先輩 赤﨑勇先生 ノーベル賞受賞記念碑除幕式開催
海外派遣は同窓会のおかげ 分水嶺
2面 KI,W-KIプロジェクト いろいろ学んだ修学旅行
注目選手へインタビュー(全国大会を終えて) 大会成績
3面 特集日本の近代化を支えた薩摩スチューデント
4面 鳶目兎目230 部活動潜入記ESS 我が校の誇る名物生徒
すごか偉人わっぜ甲南 編集後記
甲南高校新聞236号 15sinbun_no236.pdfをダウンロード

4期工事で北校舎北側にあった倉庫が解体され,中にあったテント等を体育館入口に置いていましたが,新しい体育倉庫が体育館の南側(1年生の自転車通用門の奥)にできました。写真はテント等をさっそく移動しているところです。


23日に実施する薩摩半島縦走まであと10日です。中間考査も終わり,秋晴れの中,いよいよ体育の時間でも練習が始まったようです。

10/11(日)に行われた第49回全空連県空手道選手権大会の結果です。
団体形競技 一般・高校女子の部 優勝 おめでとう!
16人目に紹介する「村橋久成」は,アミュ側から見て右側,下段左側で,右手にコートを持ち立っている人物です。
市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)
村橋直衛 留学に当たっての変名:橋 直輔 出発時23歳
ロンドン大学では陸軍学術を学ぶ。留学の翌年2月帰国。のち戦争函館役に出征。北海道の農業の技術導入に力を尽くした。
いつものように少し調べてみました。
いちき串木野市の薩摩藩英国留学生記念館のホームページの記事を紹介します。
留学当時,御小姓組番頭。「寄合並」格の出身。22歳。
羽島へ向かう前日に,留学を辞退した2人の代わりとして留学生に選ばれました。 慶応2年5月24日,阿久根着。村橋が他の留学生より早く帰国したのは精神的なバランスを崩したためとも言われています。
帰国後は,戊辰戦争に従軍し,函館戦争終結の和平交渉にも一役買いました。
そして,明治4年(1871)より開拓使に出仕します。
留学中に見た西欧の近代社会,近代農業を手つかずの大地で実現する夢を膨らませ,函館近郊の七重開墾場の開設,札幌の琴似に養蚕を軸とする屯田兵村建設に従事しました。 また,ドイツで醸造技術を学んだ中川清兵衛を雇い入れ,麦酒醸造所を造るプロジェクトのリーダーとなりました。醸造所は初め東京に設け,成功したら札幌に建設するという予定でありましたが,様々な観点から初めから北海道に作るべきという稟議書を提出し,それが認められ醸造所は札幌に建設されました。
この開拓使札幌麦酒醸造所が,現在のサッポロビールの前身となりました。
この他,葡萄醸造所,製糸所,種畜牧場,鮭ふ化場,鶏卵ふ化場,製物試験所の創設にも敏腕を振いました。
ところが明治14年(1881),五代友厚が絡む官営物払い下げ事件の直前,突然開拓使を辞職し,雲水の旅にでます。その後の足取りはあまりわかっていません。
11年後,10月12日神戸又新日報に「鹿児島県鹿児島郡塩屋村 村橋久成」と死亡記事が掲載され,その死が人々の知るところとなり,人々を驚かせました。
明治25年(1892)9月28日 49歳で死去。
※新聞で村橋の死を知った黒田清隆は,神戸から遺体を東京に運び,10月23日,自ら葬儀を行った。青山霊園に墓がある。
サッポロビールのホームページにこんな記事が載っていました。
村橋久成小伝(サッポロビール120年史より抜粋引用)
村橋久成は天保11(1840)年,薩摩藩加治木島津家の分家に生まれ,将来は家老職を約束されていた。慶応元(1865)年,薩摩藩が森有礼ら15人を留学生としてイギリスへ派遣したとき,その一人に選ばれ,ロンドン大学に入学。翌年に帰国し,幕末維新の動乱期には官軍に参加した。
明治4(1871)年11月,開拓使に10等出仕として採用され,七重村官園(現・七飯町)や,屯田兵のさきがけとなった琴似兵村(現・札幌市)の測量や境界,道路,家屋などの建設に当たった。村橋を今もサッポロビールに強く結びつけるのは,開拓使麦酒醸造所の建設を東京から札幌に変更させた功績によるものであろう。
開拓使は明治15(1882)年に廃止が予定されていたが,その前年,黒田長官を辞任に追い込んだ「開拓使官有物払下げ事件」が起こる。村橋は,目前で繰り広げられた“官財癒着”に我慢ができなかったのか,同僚たちが止めるのも聞かず,7等出仕の職を辞した。それから約10年後の明治25(1892)年10月,「鹿児島 村橋久成」という名の雲水が路上で行き倒れ,仮埋葬されたという死亡広告が神戸の新聞に掲載された。
村橋久成を主人公にした「残響」(田中和夫作)という小説があるそうで,その小説を読まれた中村晋也さんが村橋の胸像を作成され,この胸像は関係者の尽力で2005年9月北海道知事公館前庭に建てられたとのことです。



15人目に紹介する「市来和彦」は,アミュ側から見て右側,中段中央で,右手にノートを持ち座っている人物です。
市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)
市来和彦 留学に当たっての変名:松村淳蔵 出発時24歳
海軍測量術を学ぶ。慶応3年(1867)7月渡米,アナポリス海軍兵学校を卒業,明治6年(1873)11月帰国。海軍兵学校長として近代日本海軍の人材育成に尽くした。
いつものように少し調べてみました。ウィキペディアは松村淳蔵で記事がありました。少し加除しました。
鹿児島城下で市来一兵衛の息子として生れ,奥小姓から開成所諸生となる。1865年,薩摩藩第一次英国留学生として英国に渡り,2年後アメリカに移る。ロンドン大学,米国ラトガース大学で学ぶ。1869年12月アナポリス海軍兵学校に「何の給付も行わないことを条件に」日本人として初めて入学を許可され,1873年5月卒業した。同年11月に帰国。
1873年12月,海軍中佐任官。海軍兵学寮出勤,英国出張,海軍省本省出勤を経て,1876年8月,海軍兵学校長となり,自ら学んだアナポリス兵学校の教育方式を導入した。その後も三度校長となり,海兵教育の発展に貢献した。
(軍人としては長崎海軍伝習所以来の直系がイギリス海軍を範としたのに対してアメリカ海軍の教育を受けた松村以下の者の立場は傍系ともいわれるが,松村が校長として行った海軍兵学校での教育がその後の日本海軍のコスモポリタニズムに影響を与えたとも想像できる。)
1887年5月男爵の爵位を授爵し華族となった。1891年7月海軍中将となり予備役に編入,1910年11月10日に退役,1919年1月7日77歳で病没。
若き薩摩の群像の中に3人座った人物がいます。東面の五代,北面の寺島はメンバーのリーダーです。南面もこの2人に匹敵する人物だろうと思っていましたが,南側の座った人物は,薩摩スチューデント唯一の軍人さんでした。アメリカの海軍士官学校を卒業した初めての日本人,松村淳蔵。本当にこのメンバーは多才ですね。



今日は土曜授業を実施しています。いつものように生徒は登校しています。生徒の登校を見ていると,(写真は撮りませんでしたが)付近の中洲小,甲南中の生徒も登校しています。おや?と思いましたが,鹿児島市の小中学校でも今日から月1回ペースで土曜授業が始まったようです。


昨日から長崎県で行われている九州高校新人陸上1日目の速報です。
400mに出場した折田歩夢君(2年)。国体では決勝進出なりませんでしたが,今回は48秒53で3位に入りました。
本日7限目のW-KIの時間に,先月台湾に海外研修へ行った15人による報告会が行われました。台湾研修全行程の説明の後,1グループだけでしたが,屏東での交流で実際に行った研究発表のプレゼンテーションをしました。

その後,台湾へ行ってわかった台湾と日本との違いや台湾のホストファミリーとの交流をとおして感じたことなどの発表がありました。

最後は,引率の堀切先生をコーディネーターとしてディスカッションが行われ,これから課題研究を続けていく上で考えていきたいことなどが意見として出されました。

実際に台湾研修に参加した生徒から体験報告を聞くことで,多くの生徒の皆さんがたくさんの刺激を受けたのではないでしょうか。課題研究への取組が1年生全体としてさらに盛り上がっていくことを期待します。