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2015年12月20日 (日)

若き薩摩の群像(22)人物編⑨五代友厚 その2

 3/15付けで9人目に紹介した五代友厚の銅像が建っている泉公園に行ってきました。今,NHKの朝ドラに登場して,知名度が急上昇のようです。

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鹿児島市設置の説明板 godai_setumeiban.pdfをダウンロード

像の裏に回ると碑文が書かれていましたが,「碑文が見えずらくなっており,ご迷惑をおかけしております。内容については,以下のとおりです。」という案内板が置かれています。その案内文の内容です。(句読点を入れてみました。)

五代友厚小伝
五代友厚は,1835年(天保六年)薩摩国鹿児島郡城ヶ谷今の鹿児島市長田に生まれた。
幼名を徳助また才助と言い,西郷隆盛,大久保利通と共に「薩摩の三才」とよばれた。
名藩主島津斉彬の影響もあって積極進取の気象にとみ,既に十四才のとき,世界地図や地球儀を作って世界の体勢研究をした。二十三才のとき藩から選ばれて長崎に学んで洋学を研究し,二十五才のとき上海に密航,藩の為にドイツ汽船を購入し,天佑丸と命名,その船長となった。
その後,長崎にあって英商グラバー等を折衝して薩藩の近代的武装化と紡績機械等資本主義的諸機械の購入に努力した。薩英戦争(1863年)のとき,帰国従軍して不幸英艦に捕らわれたが,これが契機となって,薩英の間は急速に接近し1865年彼に薩藩第1回の留学生十四名を率いて,渡英し欧州各国を視察した。こうして得られた国際的所見と識見と近代的商工取引の知識を駆使して薩藩のみならず,革新諸藩の艦船,武器,近代産業諸機械の購入を斡旋し,これを通じて明治維新に於ける薩藩の指導性を確立することに貢献した。維新後は明治政府の参与として,新政に参画し,専ら大阪を舞台として開国当初の外交貿易に力を尽くした。1869年(明治2年)感ずる所あって官を退き,その後1885年(明治18年)51才で逝去するまで一身を殖産興業にささげ,殊に大阪商法会議所初代会頭として,維新以来荒廃した大阪商工業の復興に尽力した。「大阪の父」「二代豊太閤」と称せられる所以である。
その事業は造船,紡績,鉱山,銀行,取引所,学校,交通運輸等各方面に亘り,然もこの間「大阪会議」「熱海会議」等を通して間接に国政にも参画した。即ち,彼は近代日本黎明期に於ける,大阪指導者であったのである。
(この小伝は長田陸橋に建設されていた碑文より転記)

銅像の由来
大阪の篤志家坂岡勇治氏が 東京の彫刻家坂上正克氏に依頼製作
1961年 氏より鹿児島市(市長 平瀬實武)に寄贈
同 年 鹿児島市保直次氏の建設費寄贈により長田陸橋に建設
1981年 本公園に長田陸橋より移設
1981年3月 鹿児島市長 山之口安秀

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