若き薩摩の群像(15)人物編⑬畠山義成
12人目に紹介した寺島宗則から2か月経ってしまいました。夏休み中に残りの皆さんの紹介をがんばりたいと思います。
13人目に紹介する「畠山義成」は,アミュ側から見て左側,下段右側で,左手は伸ばし右手を曲げて巻紙を持っている人物です。
市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)
畠山義成 留学に当たっての変名:杉浦弘蔵 出発時23歳
陸軍学術を学ぶ。慶応3(1867)年渡米,ラトガース・カレッジで法律・政治などの社会科学を学ぶ。明治4年冬帰国,のちわが国の教育制度の改革に着手,初代東京開成学校長(現在の東京大学)。
いつものように少し調べてみました。ウィキペディア+αの要約です。
鹿児島城下平之馬場(現在の鹿児島市平之町)に生まれる。
後の家老候補として留学生の一員に選ばれる。(当初反対したが,島津久光に説得されて留学生に加わったとされる。)留学時の任務は築城の学習。
1865年イギリスではユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)に1年在学。
1867年8月,元在日英国公使秘書であったローレンス・オリファントの誘いで,新生兄弟会(ハリスが主宰し,オリファントが信奉していた新興宗教団体)に加わるため,吉田,鮫島,森,松村,長沢ととにも渡米。(町田久成等の他の留学生は帰国)
1868年5月,吉田,松村とともにハリスの教団を去り,薩摩藩第二次米国留学生とともにニュージャージー州へ。9月よりラトガース大学入学,科学コース(3年制)に入学。年末に受洗し,宣教師を志す。この間,留学生の世話に尽力。
1871年5月に日本から帰国命令が出る。ヨーロッパの学制視察をしながらの帰国を命じられ,10月イギリスへ。その途中,1872年1月,岩倉使節団合流を命じられアメリカへ戻る。3月1日の岩倉使節団ワシントンD.C.到着と共に,書記官として合流。以後,岩倉具視と共に各国を訪問。
1873年9月,岩倉,久米と共に帰国。同年6月に文部省顧問として来日した旧知のデイビッド・マレー元ラトガース大学教授の個人通訳などを経て,教育界へ進む。10月文部省五等出仕,開成学校,外国語学校の校長,東京書籍館,博物館の館長,および博物館付属施設の小石川植物園責任者を歴任。
1876年4月,フィラデルフィア万国博覧会視察のため文部大輔・田中不二麿と渡米。6月ラトガース大学から名誉修士号授与。しかし,結核が悪化,米国滞在の殆どを療養に費やす。9月,ニューヨークからパナマ経由の航路で出航,10月,サンフランシスコ着,シティ・オブ・ペキン号で帰国の途に着くが,10月20日,太平洋上で死亡した。29日,日本着,30日に青山墓地にて葬儀が行われた。享年33歳。
畠山義成洋行日誌を残している。
留学生の中でも,長命だった人と若くで亡くなった人がいます。畠山義成は学んだアメリカのラトガース大学時代から人柄と学識,能力が高く評価された人物だったようです。東京大学の前身である東京開成学校の初代校長ということですが,歴史に「もし」があれば,もっと活躍されたはずなのにと残念に思う一人ですね。