若き薩摩の群像(5)人物編④森有礼
4人目に紹介する「森有礼」は,アミュ側下段の左側に左手に本を開いて立っている人物です。名前は「ありのり」と読みます。
市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)
森 有礼 留学に当たっての変名:沢井鉄馬 出発時19歳
海軍測量術を学ぶ。慶応3年(1867)渡米,翌年の明治元年(1868) 6月帰国。のちわが国最初の駐米大使となる。駐英公使を経た後,教育制度の確立と近代化に大きな足跡を残す。初代文部大臣。
ウィキペディアなどの資料を要約するとこのような人物だったようです。彼を取り上げた本はたくさんあるようで,NHKの「その時歴史が動いた」でも取り上げられたことがあるようです。
1847年鹿児島城下春日小路町で藩士の五男として生まれる。(春日神社の前に石碑が建てられている。)
1860年頃より造士館で学び,その後,藩の洋学校である開成所に入学,英学講義を受講する。
1865年薩摩藩英国留学生としてイギリスへ。ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジに学ぶ。同時期の長州から留学生(長州ファイブ)とも交流。
1年経過,学費が継続できないとの知らせで,帰国組と渡米組に分かれる。
1867年ローレンス・オリファントの誘いで松村(市来),畠山,鮫島,吉田,長沢とともに渡米。新興宗教家トマス・ハリスの教団と生活をともにし,キリスト教に深い関心を示す。
1868年帰国,新政府に出仕し外国官権判事,公儀所議長心得など要職を歴任。
廃刀案を建議し否決されると一時鹿児島に帰る。
再出仕を命じられ,駐米弁務公使(現駐米大使)として渡米。条約改正の交渉にあたる。この頃,英語の国語化を主張。
1873年帰国後,福澤諭吉・西周らと共に明六社(人材育成のための「学会」)を結成。急進的な思想から明六の「幽霊」と称される。
その後,清国特命全権公使,駐英公使を歴任。
帰国後,人材育成を急務として外務畑から文部畑に転じる。
1875年東京銀座尾張町に私塾・商法講習所(一橋大学の前身)を開設する。
1885年第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任。
『諸学校令』(帝国大学令,師範学校令,中学校令,小学校令の四令の総称)を発し,従来の教育制度から抜本的な改革を図った。この功績によってのち子爵に叙せられる。
1889年2月11日の大日本帝国憲法発布式典の日に国粋主義者・西野文太郎に切りつけられ翌日死去。43歳。急進的な欧米主義者として伊勢神宮不敬の疑いがかけられためという。
明治の学校制度の枠組みをつくった初代文部大臣として有名ですが,かなり強烈な個性,行動力の持ち主だったようです。この個性的なところが彼の魅力かもしれませんね。