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2015年12月 6日 (日)

若き薩摩の群像(21)人物編⑲高見弥市

 若き薩摩の群像として並んでいる17人をはじめに,渡英したメンバー19人を紹介してきましたが,市の説明板だけで紹介されている高見弥市を最後に紹介します。

市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)


高見弥市 留学に当たっての変名:松元 誠一 年齢31歳
海軍測量術を学ぶ。元土佐藩士で,留学の翌年8月帰国。のち鹿児島で中等学校教員となり数学を教える。

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これだけなので,あわせて薩摩藩英国留学生記念館のホームページの人物紹介も転載させてもらいました。

留学当時,薩摩藩開成所第三等諸生。蘭学専修。21歳。
土佐藩の出身で,尊皇攘夷派の土佐勤王党の一員として吉田東洋暗殺事件を起こし,薩摩藩邸に匿われた大石団蔵のこと。薩摩藩に取り立てられて後,高見弥一を名乗りました。 帰国後,いったんは明治政府に出仕し,大阪運上所勤務を命ぜられますが,明治5年(1872)には鹿児島に戻り,その後鹿児島で算術教員として過ごしました。
明治29年(1896)2月28日鹿児島で死去,52歳。


吉田東洋暗殺事件は,過去の大河ドラマでも取り上げられており見た記憶があります。
当時土佐藩の参政を務めていた吉田東洋を,意見が対立していた土佐勤王党の武市半平太が大石(高見)・那須・安岡の三人を刺客に選び暗殺したとされています。

さらにネット上でも記事がけっこう出てきます。要約するとこんな感じです。
事件後土佐藩の追っ手に追われると,当時京都に居た長州藩の久坂玄瑞の元を頼り,久坂によってその身柄を薩摩藩に預けられ,その間に親しくなった薩摩藩士・奈良原喜八郎の養子となり名前を高見弥市と変えて,薩摩藩に召し抱えられることになった。

薩摩藩に亡命した高見は,元治元(1864)年6月に薩摩藩が設立した洋学教育学校「開成所」の諸生に選抜された。この開成所諸生に選ばれた者は,薩摩藩の藩校「造士館」などから選び抜かれた俊才ばかりであり,高見が元土佐人でありながら,その諸生に選ばれたのは異例のことであった。さらに高見が英国留学生一員として推薦された事実を考えあわせると,開成所では非常に優秀な成績を残していたことが窺い知れる。

維新後は鹿児島県立中学造士館で数学教師として教鞭をとる。
明治25年(1892)には,沖縄県知事に就任した奈良原繁に従い沖縄県庁に勤めるが,やがて辞職して鹿児島へ帰った。

この中学造士館は甲南高校の前身である鹿児島第二中学校の元になった学校です。その意味で高見弥市は本校にとっては身近な存在です。


前回の堀孝之と今回の高見弥市が像になっていない理由は薩摩藩以外の出身だからという説明がされているようです。実際には「若き薩摩の群像の形態」からやむを得ないのかもしれませんが,小さな像でいいから隣にでも2人の像があっていいのではと思うのですが・・・。

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