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2015年10月12日 (月)

若き薩摩の群像(18)人物編⑯村橋直衛(村橋久成)

 16人目に紹介する「村橋久成」は,アミュ側から見て右側,下段左側で,右手にコートを持ち立っている人物です。

市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)


村橋直衛 留学に当たっての変名:橋 直輔 出発時23歳
 ロンドン大学では陸軍学術を学ぶ。留学の翌年2月帰国。のち戦争函館役に出征。北海道の農業の技術導入に力を尽くした。


  いつものように少し調べてみました。
   いちき串木野市の薩摩藩英国留学生記念館のホームページの記事を紹介します。

 留学当時,御小姓組番頭。「寄合並」格の出身。22歳。
羽島へ向かう前日に,留学を辞退した2人の代わりとして留学生に選ばれました。 慶応2年5月24日,阿久根着。村橋が他の留学生より早く帰国したのは精神的なバランスを崩したためとも言われています。
帰国後は,戊辰戦争に従軍し,函館戦争終結の和平交渉にも一役買いました。
そして,明治4年(1871)より開拓使に出仕します。
留学中に見た西欧の近代社会,近代農業を手つかずの大地で実現する夢を膨らませ,函館近郊の七重開墾場の開設,札幌の琴似に養蚕を軸とする屯田兵村建設に従事しました。 また,ドイツで醸造技術を学んだ中川清兵衛を雇い入れ,麦酒醸造所を造るプロジェクトのリーダーとなりました。醸造所は初め東京に設け,成功したら札幌に建設するという予定でありましたが,様々な観点から初めから北海道に作るべきという稟議書を提出し,それが認められ醸造所は札幌に建設されました。
この開拓使札幌麦酒醸造所が,現在のサッポロビールの前身となりました。
この他,葡萄醸造所,製糸所,種畜牧場,鮭ふ化場,鶏卵ふ化場,製物試験所の創設にも敏腕を振いました。
ところが明治14年(1881),五代友厚が絡む官営物払い下げ事件の直前,突然開拓使を辞職し,雲水の旅にでます。その後の足取りはあまりわかっていません。
11年後,10月12日神戸又新日報に「鹿児島県鹿児島郡塩屋村 村橋久成」と死亡記事が掲載され,その死が人々の知るところとなり,人々を驚かせました。
明治25年(1892)9月28日 49歳で死去。

※新聞で村橋の死を知った黒田清隆は,神戸から遺体を東京に運び,10月23日,自ら葬儀を行った。青山霊園に墓がある。

 サッポロビールのホームページにこんな記事が載っていました。
 村橋久成小伝(サッポロビール120年史より抜粋引用)
 村橋久成は天保11(1840)年,薩摩藩加治木島津家の分家に生まれ,将来は家老職を約束されていた。慶応元(1865)年,薩摩藩が森有礼ら15人を留学生としてイギリスへ派遣したとき,その一人に選ばれ,ロンドン大学に入学。翌年に帰国し,幕末維新の動乱期には官軍に参加した。

 明治4(1871)年11月,開拓使に10等出仕として採用され,七重村官園(現・七飯町)や,屯田兵のさきがけとなった琴似兵村(現・札幌市)の測量や境界,道路,家屋などの建設に当たった。村橋を今もサッポロビールに強く結びつけるのは,開拓使麦酒醸造所の建設を東京から札幌に変更させた功績によるものであろう。

 開拓使は明治15(1882)年に廃止が予定されていたが,その前年,黒田長官を辞任に追い込んだ「開拓使官有物払下げ事件」が起こる。村橋は,目前で繰り広げられた“官財癒着”に我慢ができなかったのか,同僚たちが止めるのも聞かず,7等出仕の職を辞した。それから約10年後の明治25(1892)年10月,「鹿児島 村橋久成」という名の雲水が路上で行き倒れ,仮埋葬されたという死亡広告が神戸の新聞に掲載された。


 村橋久成を主人公にした「残響」(田中和夫作)という小説があるそうで,その小説を読まれた中村晋也さんが村橋の胸像を作成され,この胸像は関係者の尽力で2005年9月北海道知事公館前庭に建てられたとのことです。

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