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2014年11月24日 (月)

若き薩摩の群像(4)人物編③鮫島尚信

3人目に紹介する「鮫島尚信」は,アミュ側2段目の右側に左手にステッキをついて立っている人物です。名前は「なおのぶ」と読みます。


市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)
鮫島尚信 留学に当たっての変名:町田仲平 出発時21歳
文学を学ぶ。森,磯永(長沢)と共に慶応3年(1867)渡米。明治元年6月帰国,わが国最初の在外公館の初代弁務士(日本を代表する外交官),主にフランスに駐在し特命全権公使をつとめる。


ウィキペディアを要約するとこのような人物だったようです。
1845年鹿児島城下山之口馬場町で薩摩藩藩医の子として生まれる。
1861年蘭医研究生として長崎に学び,帰藩後開成所訓導(教師兼生徒)を務める。
1865年薩摩藩の留学生としてイギリスに留学しロンドン大学法文学部に約1年間学ぶ。1867年森有礼ら6名で渡米しトマス・ハリスの結社「新生社」に入り,ブドウ園で働きつつ学ぶ。途中意見対立があり森と鮫島は帰国。
1868年日本に到着。新政府に出仕し外国官権判事,東京府判事,翌年7月東京府権大参事。
1870年外務大丞,同年欧州差遣,少弁務使。
1871年ロンドンに着任。
1872年中弁務使に進んだのちパリに着任し,弁理公使,特命全権公使と昇進。
1874年4月帰国。翌年に外務省の次官である外務大輔となった。
1878年(明治11年)1月,再び在仏特命全権公使を任じられフランスに駐在した。
このとき,外務卿の寺島宗則から条約改正交渉に入るよう訓令されている。
1880年在仏公使在任中にパリで執務中に倒れ,35歳の若さで病没した。終世友人だった森有礼はその葬儀にかけつけ,弔辞で「気高き働き人」と述べた。パリのモンパルナス墓地に日本式の墓がある。


前回の中村博愛も外交官でしたが,鮫島尚信も外交官として活躍した人物のようです。当時留学経験をもつ彼らの役割,責任の重さを感じます。日本史の教科書に出てくる条約改正に尽力した外交官が郷土の先輩の中にいたことは記憶しておきたいですね。

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