名山小に行ってきました。
名山小は本校の沿革の一つである鹿児島第二高等女学校があった場所です。何か二高女の記念になるものがあるのではと(昨日)行ってみました。学校の外側からしか見ることが出来ませんでしたが,名山小の正門に向かって左側に二高女があったことを示す写真の石碑が置かれていました。



甲南高等学校
剛 明 直(ごうめいちょく) 気高く 優しく 健やかに
名山小は本校の沿革の一つである鹿児島第二高等女学校があった場所です。何か二高女の記念になるものがあるのではと(昨日)行ってみました。学校の外側からしか見ることが出来ませんでしたが,名山小の正門に向かって左側に二高女があったことを示す写真の石碑が置かれていました。


11月2日付けの記事でヤツデの花を紹介しましたが,校門の左手奥,照明灯が立っている奥に校内で一番大きなヤツデの木があります。今日見てみると,右の写真のようになっていました。10月28日に撮った写真が左の写真です。その時は何だろうと思っていましたが,やっぱりつぼみだったんですね。1か月かかってやっとつぼみが膨らんだようです。


期末試験と併行して3年生の進路検討会を行っています。指導している先生方をはじめ多くの先生方が生徒一人一人の学力を多角的に分析し実際の受験校を考える中で三者面談等での担任の指導の一助としています。今日はその第1日目で文系の3クラスを検討しました。12月2日までの予定です。

期末考査が始まりました。今日は各学年とも3教科,数学,英語,国語のテストとなっていたようです。どのクラスも真剣に取り組んでいました。明日からの土日の過ごし方が大切です。がんばれ甲南生!!

いよいよ明日から2学期末考査。土日を挟んで3日までの4日間(6日間)の日程で実施します。考査に備えて,すでに今週は朝の特別指導や部活動も中止期間としています。問題作成のため職員室も入室禁止となり,廊下で先生方から指導を受ける様子が見られます。1年の締めくくりとともに次の学年に向けての覚悟を決める大切なテストです。3年生にとってはこれが最後の定期考査です。明日から天気が崩れる予報も出ていますが,体調管理をしながら生徒は全力を出してがんばってください。

第16回南九州市かわなべ青の俳句大会の結果が今朝の朝刊で発表されました。本校は特別賞1人,特選4人,入選8人で,昨年度に引き続き学校賞をいただきました。
表彰式は12月6日に南九州市で行われます。入賞者の作品を掲載します。


このところぐずついた天気が続いています。あまり寒くはないのですが,イチョウの黄色が増し葉がたくさん落ちています。イチョウの落ち葉の掃除がたいへんな季節になりました。これも甲南の風物詩ですね。
北校舎の南側を眺めるとモミジやツタが赤くなり,また,地面にはドングリがたくさん落ちていました。こんなところにもドングリができる木があったんですね。(9月2日に記事にした南門のところにあるマテバシイとは種類が違うアラカシという木のようです。)




12月行事予定表です。本日生徒便で配布しました。
12月行事予定表 14_12gatu_gyouji.pdfをダウンロード
<12月の主な行事>
~3日(水) 期末考査
3日(水) 学校周辺ボランティア清掃(1,2年)
8日(月) 防火防災避難訓練
10日(水) 3年生三者面談 (11日,15日,16日)
13日(土) 土曜授業
24日(水) 終業式
25日(木) 冬季特別指導(~26日) クリスマスコンサート(吹奏楽部)
3人目に紹介する「鮫島尚信」は,アミュ側2段目の右側に左手にステッキをついて立っている人物です。名前は「なおのぶ」と読みます。
市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)
鮫島尚信 留学に当たっての変名:町田仲平 出発時21歳
文学を学ぶ。森,磯永(長沢)と共に慶応3年(1867)渡米。明治元年6月帰国,わが国最初の在外公館の初代弁務士(日本を代表する外交官),主にフランスに駐在し特命全権公使をつとめる。
ウィキペディアを要約するとこのような人物だったようです。
1845年鹿児島城下山之口馬場町で薩摩藩藩医の子として生まれる。
1861年蘭医研究生として長崎に学び,帰藩後開成所訓導(教師兼生徒)を務める。
1865年薩摩藩の留学生としてイギリスに留学しロンドン大学法文学部に約1年間学ぶ。1867年森有礼ら6名で渡米しトマス・ハリスの結社「新生社」に入り,ブドウ園で働きつつ学ぶ。途中意見対立があり森と鮫島は帰国。
1868年日本に到着。新政府に出仕し外国官権判事,東京府判事,翌年7月東京府権大参事。
1870年外務大丞,同年欧州差遣,少弁務使。
1871年ロンドンに着任。
1872年中弁務使に進んだのちパリに着任し,弁理公使,特命全権公使と昇進。
1874年4月帰国。翌年に外務省の次官である外務大輔となった。
1878年(明治11年)1月,再び在仏特命全権公使を任じられフランスに駐在した。
このとき,外務卿の寺島宗則から条約改正交渉に入るよう訓令されている。
1880年在仏公使在任中にパリで執務中に倒れ,35歳の若さで病没した。終世友人だった森有礼はその葬儀にかけつけ,弔辞で「気高き働き人」と述べた。パリのモンパルナス墓地に日本式の墓がある。
前回の中村博愛も外交官でしたが,鮫島尚信も外交官として活躍した人物のようです。当時留学経験をもつ彼らの役割,責任の重さを感じます。日本史の教科書に出てくる条約改正に尽力した外交官が郷土の先輩の中にいたことは記憶しておきたいですね。



21日のブラッシュアップセミナーの様子を撮影した写真をスライドショーにしました。
講義をしていただいた先生方ありがとうございました。
文系編 開講式,講座①~⑤ 14bs_bunkei.mp4をダウンロード
理系編 講座⑥~⑮ 14bs_rikei.mp4をダウンロード