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2015年4月26日 (日)

若き薩摩の群像(13)人物編⑪磯永彦助(長沢鼎)

 11人目に紹介する「磯永彦助(彦輔)(いそながひこすけ)」は,電車通り側下段右側でひじかけにぶどうが置いてあるいすに座った一番小さな少年です。

市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)


磯永彦助 留学に当たっての変名:長沢 鼎 出発時13歳
幼少のため勉強の科目を決めなかった。ただ一人,スコットランドの古都アバティーンへ写る。慶応3年(1867)7月渡米,以来生涯をアメリカで送り,広大なぶどう園の経営とぶどう酒製造につとめ,ぶどう王と呼ばれた。


 昨年の10月27日付けのブログで,学校の近くにある誕生地の写真と市の説明板をアップしていますのでそちらもご覧ください。

 市の説明板の写真の説明に長沢鼎がないのでビックリしました。留学生達は渡欧にあたり全員変名を名乗ったわけですが,磯永彦助は「長沢鼎」を名乗り,これ以後一生これを変えることはなかったそうです。

 長沢は留学生の中でも著名な一人ですが,ウィキペデアに書かれていることを改めて要約してみました。


 鹿児島城下上之園通町(現在の鹿児島県鹿児島市上之園町)にて磯永孫四郎とフミの四男として誕生する。
 1865年(慶応元年),13歳のときにイギリスに留学する。
 他の留学生はロンドン大学に入ったが,長澤は年齢が入学年齢に達していないために,スコットランドのアバディーン・グラマー・スクールに通う。貿易商トーマス・ブレーク・グラバーの実家に世話になるが,藩の財政事情が悪化し多くの薩摩藩英留学生が帰国すると,慶応3年,トマス・レイク・ハリスを信奉していたローレオンスリファントの招きで森ら6名で渡米し,ハリスが主宰するキリスト教系の新興教団「新生社」に入り,信者らと共同生活を送る。
 薩摩藩留学生のうち何人かはハリスの思想に違和を感じてすぐ離反したが,長沢は森有礼らとともに残り,森らが帰国後も唯一人アメリカに残り,教団で厳しい労働と信仰生活を送りながら,1870年には9月から3か月ほどコーネル大学にも通った。教団の経営のためにワイン醸造をニューヨークのブルックリンでジョン・ハイド博士から学び,葡萄農園を中心とする農業で財政を支えた。
 1875年,教団はカリフォルニアのサンタローザにワイナリーを開いた。しかし新生社の異端思想に対し,新聞が反教団キャンペーンを行ったために,ハリスが引退すると教団は事実上解散した。
 1900年長澤はワイナリーを教団から買い取り,品質向上に努力し,彼のファウンテングローブ・ワイナリーをカリフォルニア州10大ワイナリーのひとつにまで育て上げた。カリフォルニア大学デービス校の教授に醸造技術を学ぶなど研究を続け,高級ワインに育て上げた上に,フランスには特約店を設け,苗木を輸入するなど,商才にも長けていた。彼のワインは米国内のワインコンクールで好成績を納め,イギリスに輸出された最初のカリフォルニアワインもナガサワ・ワインである。
 生涯独身を貫き,83歳で死ぬと,ワイナリーは甥の伊地知共喜が継ぐ。


 彼の生涯はアメリカでも再評価され,サンタローザの市議会ホールに長沢の胸像が置かれ,レーガン大統領の讃辞が添えられているそうです。

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