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2015年3月 8日 (日)

若き薩摩の群像(9)人物編⑧吉田清成

 8人目に紹介する「吉田清成(よしだきよなり)」は,電車通り側中段向かって右側で,左手にステッキを持ち,立っている人物です。


市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)
吉田清成 留学に当たっての変名:永井五百介 出発時21歳
海軍測量術を学ぶ。慶応3年(1867年)7月渡米。ラトガース・カレッジで政治経済学を学ぶ。明治3年冬帰国。新政府の財政問題と条約改正に取組む。駐米公使,農商務次官をつとめる。


調べてみると次のようなことが出てきました。
弘化2年(1845)薩摩藩士吉田源左衛門の四男として上之園町に生まれる。(生地は三方限出身名士顕彰碑敷地内にある市の説明板の裏にある地図によれば,長沢鼎の生地:甲南福祉館付近にあったらしい)藩の開成所学生として蘭・英語を学ぶ。
イギリス到着後,ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで2年間学んだ後,留学生が帰国組と渡米組に分かれると,吉田は慶応3年(1867)8月,ローレンス・オリファントのすすめでアメリカに渡り,ハリス教団に参加し,労働を中心とする信仰生活に入る。しかし,教団での生活が1年近く経った頃,トーマス・レイク・ハリスと吉田,畠山,松村の3人は意見が衝突して教団を去る。ハリスを信じて教団に残ったのは森,鮫島,長澤であった。
 明治元年(1868)5月,教団を脱退してラトガース大に入学し,アナポリス海軍兵学校を志すが途中で変更してウィルブラハム・アカデミーへ移り政治経済学の勉強を始める。ラトガース在学中の11月に正式に洗礼を受ける。卒業後ニューヨーク市などで銀行保険業務の実際を学び,明治3年(1870)12月帰国。大蔵省に出仕して租税権頭・大蔵少輔を歴任する。債募集のため米国に派遣された際,そのとき米国にいた森有礼と起債の是非を巡って激しく対立した。
明治7年(1874) 駐米公使へ転出,寺島外務卿の下で関税自主権回復を目的として条約改正交渉に従事し,明治11年(1878),日米約書(吉田・エヴァーツ条約)の調印に成功するが,英独の反対で条約は無効となる。
明治15年(1882)外務大輔となるが,時の外務卿井上馨と意見が合わず,明治18年(1885),農商務大輔へ転任となる。
1887年(明治20年)に子爵に叙せられて元老院議官に転出,翌年には枢密顧問官となる。投機取引を抑制する取引所条例制定の推進者としても有名で、終生自分が理財家たることを忘れなかった。明治24年(1891)8月没。享年47歳。
生前,多数の手紙・日記・記録などを遺しており,これら2,700通は「吉田清成文書」として京都大学日本史研究室に保管されている。


吉田清成は,外交官として活躍した他,理財家として明治初期の日本の経済の在り方に足跡を残した人物のようです。吉田と森有礼との対立のように,若い留学生のなかでの生き方,考え方の違い,対立も当然おこることだろうと感じます。

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