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2014年12月21日 (日)

若き薩摩の群像(6)人物編⑤町田清治郎

5人目に紹介する「町田清治郎」は,アミュ側下段の右側で右手を胸に,左手を前に出して立っている人物です。

市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)
町田 清治郎 留学に当たっての変名:清水兼次郎 出発時15歳
幼少のため勉強の科目を決めなかった。留学の翌年8月帰国。町田久成の弟で,帰国後,財部実行と改姓。


この人物については,帰国後の消息がよくわからないようで,たったこれだけの説明になっていますが,調べてみるとこんな話が出てきます。
・人物編①でとりあげた町田久成の弟。名門門閥の町田久長の末子(5男)。留学生のメンバーには町田兄弟が3人が入っている。留学前は薩摩藩開成所諸生。
・慶応2年夏フランスに渡り,普墺戦争を見学した。
・兄2人と共に帰国。明治になって財部氏の養子となり,財部実行と改姓した。
・町田兄弟の間では,英文で手紙をやりとりするほどで,日本文ができず,久成の勧めで東京へ出て,漢学を習い,その後,築地の海軍兵学寮で学ぶが「明治7年征韓論のとき退学」した。
・当時長沢についでメンバー中の年少だった町田清次郎は,50年以上経って回顧談を残している(「財部実行回顧談」)。清次郎の回顧談は,好奇心いっぱいの少年目線であり,ずば抜けて面白いと言われている。
<薩摩藩英国留学生記念館準備室HPに出ているエピソードの一つ>
(帰国の際に)マルセーユを出航して間もなく,清次郎はオランダから来たという少年と出会います。少年の祖父と父親は,オーストラリア(当時オランダ領)の海軍司令長官(中将)と海軍中佐として赴任するところでした。少年と仲良くなった清次郎は,香港までの船旅を兄弟の様に過ごします。
 ある日,清次郎は少年の祖父にオーストラリア行きを誘われます。清次郎は,資金が無いため困難であると伝えますが,少年の祖父は「小使金をあげるので心配ない」と答えます。また,清次郎がオランダの海軍士官となり,オランダ国籍を取得することを少年が提案したことで,清次郎はオーストラリア行きを本気で考えるようになります。
 香港に着いた清次郎は,オーストラリアに行く為に脱走を試みますが,船員に話が洩れ,失敗に終わります。また,香港の旅館ではイギリス人の監視が付くことになり,
オーストラリアへ行くことを断念します。(財部実行回顧談より参照)
・それ以外の消息は死亡年(1922?)やお墓の場所等も含めて不明。

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