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2014年12月 7日 (日)

若き薩摩の群像(6)人物編④森有礼その2

森有礼の生誕地に行ってきました。国道10号線から春日町の交差点を左に入り春日神社の目の前に大きな石碑が建てられています。碑文の文字は松方正義書とあります。

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市の案内板の説明にはこう書かれていました。


 極めつけのハイカラさん~日本の教育制度を創設した初代文部大臣~
 1885年(明治18)わが国初の伊藤博文内閣成立時,その国際的見識をかわれて文部大臣に就任したのが森有礼です。彼はドイツの教育制度を参考に,小学校から帝国大学までの学校制度を整えました。「国家に役立つ人間をつくる」という彼の信念が第2次世界大戦までのわが国の教育を方向づけたのです。
  若くして海外事情に目覚めた森は,17歳の時,五代友厚らと共に19名の使節・派遣留学生に選ばれ渡欧。帰国後は新政府の外交官として,清国やアメリカに駐在しました。このような海外経験から,彼は常に文明開化の先頭に立ち,閉鎖的な思想を批判し,西洋文化を紹介し広めることに努めました。廃刀論,信仰の自由,男女同権,一夫一婦制,さらには「英語を国語に」という提言や,西洋風の結婚パーティ,契約結婚の実行など,当時としては極めつけのハイカラさんだったようです。
 ところが時代はそんな彼を受け入れず,伊勢神宮参拝で不敬行為があったと噂され1889年(明治22)憲法発布日の朝,官邸で刺殺されました。


甲南高校がある上之園近辺,かつての三方限出身の人物ではありませんが,日本史の教科書に出てくる人物ですし,市の説明板は「極めつけのハイカラさん」という表現をしていますが時代的にもまた本県の先人としてもかなり特徴のある興味深い人物だったように思います。下の写真は市の説明板にある顔写真です。(写真は昨日雨の中撮りましたので雨粒が写っています。)

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2014年12月 5日 (金)

若き薩摩の群像(5)人物編④森有礼

4人目に紹介する「森有礼」は,アミュ側下段の左側に左手に本を開いて立っている人物です。名前は「ありのり」と読みます。


市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)
森 有礼 留学に当たっての変名:沢井鉄馬 出発時19歳
海軍測量術を学ぶ。慶応3年(1867)渡米,翌年の明治元年(1868) 6月帰国。のちわが国最初の駐米大使となる。駐英公使を経た後,教育制度の確立と近代化に大きな足跡を残す。初代文部大臣。


ウィキペディアなどの資料を要約するとこのような人物だったようです。彼を取り上げた本はたくさんあるようで,NHKの「その時歴史が動いた」でも取り上げられたことがあるようです。

1847年鹿児島城下春日小路町で藩士の五男として生まれる。(春日神社の前に石碑が建てられている。)
1860年頃より造士館で学び,その後,藩の洋学校である開成所に入学,英学講義を受講する。
1865年薩摩藩英国留学生としてイギリスへ。ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジに学ぶ。同時期の長州から留学生(長州ファイブ)とも交流。
1年経過,学費が継続できないとの知らせで,帰国組と渡米組に分かれる。
1867年ローレンス・オリファントの誘いで松村(市来),畠山,鮫島,吉田,長沢とともに渡米。新興宗教家トマス・ハリスの教団と生活をともにし,キリスト教に深い関心を示す。
1868年帰国,新政府に出仕し外国官権判事,公儀所議長心得など要職を歴任。
廃刀案を建議し否決されると一時鹿児島に帰る。
再出仕を命じられ,駐米弁務公使(現駐米大使)として渡米。条約改正の交渉にあたる。この頃,英語の国語化を主張。
1873年帰国後,福澤諭吉・西周らと共に明六社(人材育成のための「学会」)を結成。急進的な思想から明六の「幽霊」と称される。
その後,清国特命全権公使,駐英公使を歴任。
帰国後,人材育成を急務として外務畑から文部畑に転じる。
1875年東京銀座尾張町に私塾・商法講習所(一橋大学の前身)を開設する。
1885年第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任。
『諸学校令』(帝国大学令,師範学校令,中学校令,小学校令の四令の総称)を発し,従来の教育制度から抜本的な改革を図った。この功績によってのち子爵に叙せられる。
1889年2月11日の大日本帝国憲法発布式典の日に国粋主義者・西野文太郎に切りつけられ翌日死去。43歳。急進的な欧米主義者として伊勢神宮不敬の疑いがかけられためという。


明治の学校制度の枠組みをつくった初代文部大臣として有名ですが,かなり強烈な個性,行動力の持ち主だったようです。この個性的なところが彼の魅力かもしれませんね。

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2014年11月24日 (月)

若き薩摩の群像(4)人物編③鮫島尚信

3人目に紹介する「鮫島尚信」は,アミュ側2段目の右側に左手にステッキをついて立っている人物です。名前は「なおのぶ」と読みます。


市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)
鮫島尚信 留学に当たっての変名:町田仲平 出発時21歳
文学を学ぶ。森,磯永(長沢)と共に慶応3年(1867)渡米。明治元年6月帰国,わが国最初の在外公館の初代弁務士(日本を代表する外交官),主にフランスに駐在し特命全権公使をつとめる。


ウィキペディアを要約するとこのような人物だったようです。
1845年鹿児島城下山之口馬場町で薩摩藩藩医の子として生まれる。
1861年蘭医研究生として長崎に学び,帰藩後開成所訓導(教師兼生徒)を務める。
1865年薩摩藩の留学生としてイギリスに留学しロンドン大学法文学部に約1年間学ぶ。1867年森有礼ら6名で渡米しトマス・ハリスの結社「新生社」に入り,ブドウ園で働きつつ学ぶ。途中意見対立があり森と鮫島は帰国。
1868年日本に到着。新政府に出仕し外国官権判事,東京府判事,翌年7月東京府権大参事。
1870年外務大丞,同年欧州差遣,少弁務使。
1871年ロンドンに着任。
1872年中弁務使に進んだのちパリに着任し,弁理公使,特命全権公使と昇進。
1874年4月帰国。翌年に外務省の次官である外務大輔となった。
1878年(明治11年)1月,再び在仏特命全権公使を任じられフランスに駐在した。
このとき,外務卿の寺島宗則から条約改正交渉に入るよう訓令されている。
1880年在仏公使在任中にパリで執務中に倒れ,35歳の若さで病没した。終世友人だった森有礼はその葬儀にかけつけ,弔辞で「気高き働き人」と述べた。パリのモンパルナス墓地に日本式の墓がある。


前回の中村博愛も外交官でしたが,鮫島尚信も外交官として活躍した人物のようです。当時留学経験をもつ彼らの役割,責任の重さを感じます。日本史の教科書に出てくる条約改正に尽力した外交官が郷土の先輩の中にいたことは記憶しておきたいですね。

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2014年11月16日 (日)

若き薩摩の群像(3)人物編②中村博愛

2人目に紹介する「中村博愛」は,アミュ側2段目の左側に手を上げて立っている人物です。「なかむらはくあい」と読みが付けられているものと「なかむらひろなり」と書いてあるものもあります。


市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)

中村博愛 留学に当たっての変名:吉野清左衛門 出発時25歳
化学を学ぶ。留学の翌年1月渡仏,3年間フランスで留学生活をしたのち明治元年(1868)年帰国。藩開成所のフランス語教授,のち公使(オランダ,ポルトガル,デンマーク)として外交官になる。


さらに調べてみるとこのような人物だったようです。
天保14年(1843)旧根占町に生まれる。
長崎遊学時,英学専修。蘭医ボードウィン門下生。
渡英後,ロンドン大学で化学を学ぶ。
その後フランス人貴族モンブラン伯爵の世話でパリに渡りフランス語を習得する。
明治元年(1868)5月に帰国後は薩摩藩開成所のフランス語教授となる。
1869年山縣有朋,西郷従道らのヨーロッパ視察にフランス語通訳として同行。
以後政府に出仕して外交官となりフランスのマルセイユ領事,デンマーク公使など欧州各国に派遣され,外交の実務家としてすぐれた功績を残す。
貴族院議員。明治35年(1902)10月30日死去。60歳。


今日本ではグローバルな活躍ができるよう若者の成長が求められていますが,フランス語が得意で外交官として活躍した中村博愛は,まさにその先駆者といえるかもしれませんね。

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2014年11月 9日 (日)

若き薩摩の群像(2)人物編①町田久成

最初に紹介する「町田久成」は,一番上のアミュ側に立っている人物です。


市の説明板にはこう書いてあります。(下段の顔写真も市の説明板にあるものです。)
町田久成 留学に当たっての変名:上野良太郎 出発時28歳
留学生の学頭として指導監督にあたる。帰国後は博物館の創始者,元老院議員となる。


ウィキペディアで調べてみると
1838-1897 島津氏庶流として鹿児島城下で生まれる。薩英戦争や禁門の変にも従軍。
1865年1月 薩摩藩英国留学生を率いて英国留学に出発。10月よりロンドン大学ユニバーシティカレッジ法文学部の聴講生となる。
1867年2月 パリ万国博覧会に参加。6月,英国より帰国
明治維新後,外務省,内務省で重職を務める。
1870年9月 大学大丞に異動
1871年5月 大学が文部省へと変わると文部省博物局を設置し「集古館」建設を提言
1882年3月 東京帝室博物館(後の東京国立博物館)初代館長に就任~同年10月
1885年3月 元老院議官となる。~1889年12月
1890年 三井寺光浄院住職となる。
1897年9月15日療養先の寛永寺明王院で死去
1912年 国立博物館裏庭に井上馨,杉孫七郎らの提案で顕彰碑が建立された。

ヨーロッパ滞在中に博物館事業の重要性を認識し,維新改革,廃仏毀釈の流れの中で多くの美術品が破壊,また海外に流出していくのを惜しみ,博物館創設事業に携わる。官費が不足する中で私財を用いて収集を続け博物館の所蔵品充実に尽力した。書画篆刻を自らよくし,美術品の鑑定眼が優れていた。


今年度の修学旅行でも2年生が東京国立博物館を見学しましたが,その建設に尽力し初代館長となった人物が,町田久成ということですね。

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2014年11月 7日 (金)

若き薩摩の群像(1)

多くの甲南生が通学に使う鹿児島中央駅東口に「若き薩摩の群像」が立っています。いちき串木野市に記念館が建てられて話題になっていますが,この像について質問です。

Q1 いつ建立されたか?
Q2 なぜ建てられたか?
Q3 作者は誰か?
Q4 何体の人物が描かれているか?

どうでしょう? 答えは

A1 台の下方にあるプレートを読むと昭和57年3月建立とあります。
A2 これも「鹿児島市が今日50万都市達成を記念すべき時にあたり」とあります。
A3 大久保利通像も手がけた中村晋也氏の作品です。
A4 英国に留学した薩摩藩士17人が描かれています。

皆さんこの17人をどのくらいご存じですか?像の南側に説明のプレートがありますが,どの像が誰なのか説明したものがないようです。調べてみると下右図のような配置になるようです。これからブログの記事がない日に,シリーズで(勝手に付けた下右図の番号順に)この17人(の像)を紹介していきたいと思います。

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2014年10月27日 (月)

長沢鼎誕生地

 学校の正門横の信号を渡り,共研幼稚園の横,甲南福祉館の玄関のそばに,長沢鼎の誕生地の碑があります。(写真) 碑の正面右側面に「昭和九年十月建立」とあります。
  鹿児島市の案内板にはこう書かれています。


 長沢鼎(ながさわかなえ)は,1852(嘉永5)年,高麗町(甲南高校正門前)に生まれました。本名は磯永彦輔(いそながひこすけ)といい,わずか13歳で薩摩藩英国留学生の一員に選ばれ,スコットランドのアバディーンの学校で勉強しました。

 その後,1867(慶応3)年アメリカに渡り,カリフォルニア州サンタローザでぶどう栽培に取り組み,農園の経営に成功して“ぶどう王”といわれるまでになりました。鼎はアメリカに永住し,1934(昭和9)年82歳でなくなりました。


 長沢鼎は中央駅の「若き薩摩の群像」の中にも描かれています。電車通り側下段正面右側のひじかけにぶどうが置いてあるいすに座った一番小さな少年の像が長沢鼎です。

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2014年10月24日 (金)

荒田八幡北随神

学校の東隣,中洲通沿いに荒田八幡北随神があります。荒田八幡には随神が東西南北に置かれており,その一つです。記録によればかつての荒田荘の境界に随神が置かれているようです。

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2014年10月 4日 (土)

三方限出身名士顕彰碑 (3)

三方限出身名士顕彰碑の裏面にある碑文を紹介します。

碑文はNHKの大河ドラマ「八重の桜」にも登場した徳富蘇峰によるものです。碑文が書かれた昭和10年は1935年ですので明治維新から67年後です。それからまた同じぐらいの年月が経っています。そういう時間の流れも思いながら読んでみたいと思います。

 碑文は漢字カタカナ交じり文で書かれていますが,読みやすいように句読点を入れながら漢字ひらがな文にしてみました。


 薩隅日の三州は島津氏の舊(旧)封にして、始祖忠久公以來、一姓連綿二十九世七百餘年。齊彬公英邁の資を以て、經世の略を負ひ、天下に率先して尊王の大義を唱へ、久光公其の志を繼ぎ、忠義公を輔け、維新回天の鴻業を翼賛するに及て、良弼名將雲の如く興り、或は廊廟の器と為り、或は干城の士と為り、其の功績相同じからずと雖も歴史的淵源と累世政教の感化とに由りて、一藩の士氣を鼓舞作興し、其の精華を發揮したるに至りては、未だ甞て、其の揆を一にせずんばあらず。
 鹿児島市高麗、上之園、上荒田三町方限は維新以来人才の淵叢にして、西郷南洲、大久保甲東兩先生を始めとし、文武名臣の舊蹟は後進を誘くに歴史的の教訓を以てし、吾人に示すに國家報效(効)の鍼路を以てす。其の淵源既に遠く、千載不磨の典型を遺したるは吾人の牢記せざるを得ざる所なり。頃日同郷の有志胥謀り、三町方限先進先覺者の舊蹟を表彰せんが為に一個の石柱を各々其の門戸に建て、以て其の舊栖地たることを明にし、更に一大記念碑を荒田小學校の正門に建設し、之を後世に傳へんと欲し、文を予に徴す。予深く其舉の世道に裨補し、人心を警醒するに足るものあるを嘉みし。乃ち書して以て之を後人に諗くと云ふ。
 昭和十年四月下浣               蘓峯 徳富猪一郎撰  方竹 梅園良正書


三方限出身名士顕彰碑文 縦書き原文 sanpugiri_hibun.pdfをダウンロード

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2014年9月26日 (金)

三方限出身名士顕彰碑(2)

三方限出身名士顕彰碑の2回目として,碑の敷地内に設置されている鹿児島市の案内板に書かれている内容を紹介します。

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偉人たちの育った町-甲突川をはさんで競いあった英才教育-
 鹿児島の城下では,城下士の居住地をいくつかの地域にわけて,それぞれを方限(ほうぎり)といいました。方限は郷ともいい,郷ごとにつくられた青少年の教育機関を郷の相中(あいじゅう),略して郷中(ごじゅう)と呼ぶようになったのです。したがって郷中方限といえば,現在の学区[注]にあたります。
 薩摩藩は郷中での子弟教育に独特のしくみを取り入れ,子供たちを幼少の頃から厳しくしつけました。「十八交りを結ぶ健児の舎」という頼山陽(らいさんよう)の詩は,当時18あった郷中の姿を伝えています。その中で,高麗(こうらい),上之園(うえのその),上荒田(うえあらた)の三方限(さんほうぎり)は加治屋町方限と並んで,幕末から明治にかけての偉人を数多く育てたことで知られています。
 昭和10年,これらの偉人たちの業績を顕彰するため顕彰碑が建てられました。碑文は文豪徳富蘇峰(とくとみそほう)が書いたものです。
 以下 三方限出身名士一覧(48人)略

[注]:現在では「学区」というと高校の広い学区のイメージですので,ここでは小中学校の「校区」といった方が近いのではと思います。

 この48人の中には,西郷,大久保をはじめ著名な人物もいますが,知られていない人も多いようです。それぞれどんなことをした人なのか,とりあえずネットで調べると,まとめたものが載っているサイトがありましたので(正しいかどうかわかりませんが)以下に転載しておきます。このサイトには毎年8月に地域で行われる慰霊祭の様子も出ています。あらためて時間を見つけてこの48人を調べてみたいものです。

三方限出身名士48人の紹介 sanpouguri_48meisi.pdfをダウンロード

三方限出身名士顕彰碑については,もう1回,最後に徳富蘇峰が書いた石碑の碑文を紹介したいと思います。

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